井手口満修道士のこれって、どんな種?
受け入れるという種
〈年間第27主日〉マルコ10・2〜16
ある人から「イエス様はどこにいるのですか? 天国はどこにあるのですか?」という質問を受けました。私たちが持っているイエス様がおられる場所や天国というイメージは、どこか宇宙の果てのような、または、良く分からないけれど何か天の国というものがあって、そこに三位一体の神や天使、そして、天国に入れられた霊魂がいて、愛に満たされたところ、というものではないでしょうか。確かに、天国は、愛に満たされたところです。しかし、それがどこかの場所というようなものではないようです。もちろん亡くなって天国に行った人が、私たちに直接語ってくれるようなことはありませんので、はっきりしたことはわかりません。
さて、きょうのみことばは、離婚についてファリサイ派の人々が、イエス様に質問をして試みる場面と、幼な子をイエス様に触れていただこうとして連れてきた人々を、弟子たちがたしなめ、それをイエス様が憤られる場面です。この二つの内容の中で、一つの【受け入れる】という単語が浮かび上がって来るような気がいたします。
まず、ファリサイ派の人々は、イエス様に「夫が妻を離縁することは許されていますか」とイエス様を試みます。ファリサイ派の人々は、モーセが何と言っているかを知っていました。しかし、彼らは、あえてイエス様の意見を聞きたかったのです。イエス様は、「モーセはあなたがたの心がかたくなだったから、そのようなおきてを書いたのである」と言われます。このことは、結婚について神が二人を合わせたと錯覚して、人間的な事情によって結婚したことによる過ちを許すという、モーセの譲歩だったのでした。イエス様は、そのような人間的な弱さや、モーセの言葉を盾に自分たちの結婚が間違っていたと主張する頑なさを嘆かれます。
イエス様は、決して離婚について許されたわけではありませんでした。イエス様は、創世記の人間を創造された場面を想起させます。その後に、「したがって、彼らは二人ではなく、一体である。」と言われます。イエス様は、たとえ人間的な理由である結婚であっても、そこには神様によって一体となった二人が、お互いに助け合い、歩んで行くことを伝えています。さらに「神が合わせたものを、人間が離してはならない」と言われます。ユダヤ教では、離婚に関して男性のみが離縁状を与える決定権を持っていました。男性は、妻に対して「恥ずべきことあるのを見て、好まなくなったならば」離婚してもよいということもできたそうです。しかし、これに対して女性の権利や意見は通らなかったのです。イエス様は、このような矛盾や不条理を厳しく指摘されます。そして、男性、女性共に離婚した後にまた、再婚するならばお互いに【姦通】の罪を犯すことになる、ということを伝えます。もし、結婚した二人が、お互いを【受け入れ】ることで、思いやりを持って、忍耐し、愛を育んでいったのならば離婚は行わずにすむことでしょう。
次は、人々が幼な子をイエス様に触れていただこうとするのを、弟子たちがたしなめる場面です。イエス様は、その様子をご覧になり、「そのままにしておけ。幼な子がわたしのもとに来るのを止めてはいけない。神の国はこのような人たちのものだからである。」と弟子たちに対して言われます。イエス様は、弟子たちにこれまで、「幼な子の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マルコ9・37)、「わたしを信じるこの小さな者の一人に罪を犯させる人は、……」(マルコ9・42)と【幼な子】に対して弟子たちに伝えていました。しかし、弟子たちは、そのことを理解していなかったのです。もし、弟子たちが理解していたのなら決して幼な子が来ることを止めたりはしなかったでしょう。イエス様は、「神の国は、幼な子のように大人の手を借りないと何もできない者、弱い立場の罪人、病気の人のものだ」と言われています。
イエス様は、私たちの身近な人を【受け入れ】なさいと言われているのではないでしょうか。私たちは家庭の中で、夫婦がお互いを【受け入れ】また、親は子を【受け入れる】ことによって平安な状態が生まれて来るのではないでしょうか。そのような平安な状態が天国だと思います。このことは、職場や学校、さまざまな共同体で言えることだと思います。共同体の大小に限らず、その中にいるお互いが相手の欠点を【受け入れ】、許し合い、助け合うことですばらし共同体になることでしょう。私たちの天国はとても身近なところにあるのかも知れません。きょうのみことばを黙想しながら、私たちの身近にある共同体を今一度見つめてまいりましょう。
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