仕える者になる種 - これって、どんな種?

井手口満修道士のこれって、どんな種?

仕える者になる種

〈年間第29主日〉マルコ10・35〜45


 前の教皇ヨハネ・パウロⅡ世は、各国を訪問する際に、その地に着いた時に必ず大地に接吻をされていたと、聞いたことがあります。それは、そこの国民のために仕えるため、というような意味ではなかったでしょうか。教皇は、カトリック信者の頂点の位置におられます。しかし、教皇のことを【しもべの中のしもべ】ということを聞いたことがあります。

 さて、きょうのみことばは、イエス様と弟子たちがエルサレムに向かう途中の場面です。その時、ヤコブとヨハネがイエス様のところへ近づき、イエス様が栄光をお受けになる時に自分たちをイエス様の、左右に座らせてください、と頼みます。弟子たちは、イエス様から何度か、エルサレムで起こることを聞いていました。彼らは、十分に理解していないまでもイエス様が、メシアとして復活される、というように理解していたのではないでしょうか。そのため、この二人は、イエス様に左右に座らせて欲しいと願がったのです。

 イエス様は、二人に「あなたたちは、わたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることができるか」とお尋ねになります。二人は、「できます」と答えました。イエス様ご自身でさえ、ゲッセマネの園では、「……わたしからこの杯を取り除いてください。」(マルコ14・36)と祈られたのでした。そのような苦しい杯を、この二人の弟子たちは、「できます」と答えたのでした。イエス様は、彼らがどのような最期を遂げるかをご存知だったのでしょう。しかし、イエス様が栄光の座に着く時に左右に座ることをお決めになるのは、イエス様ではなく、おん父でした。

 このような、彼らの会話を聞いた他の弟子たちは、二人の弟子たちに対して憤慨します。他の弟子たちの行動には興味があります。彼らは、何故憤慨したのでしょうか。みことばでは、ヤコブとヨハネだけが目立っていますが、実は、他の弟子たちもヤコブとヨハネと同じような考えを持っていたのではないでしょうか。そのため、自分たちよりも早くイエス様に、願いを出た二人を許すことができなかったのでしょう。このような、弟子たちの行動を見ながら、私たち自身の反省材料になるのではないでしょうか。私たちは、イエス様の前では、誰が偉いというようなことを言えないことは分かっているのですが、ついつい他人よりは高い位置を希望してしまうことがあります。

 イエス様は、彼らを呼び寄せて「……あなたたちのうちで偉くなりたい者は、かえってみんなのしもべとなり、また、あなたたちのうちで頭になりたい者は、みんなの奴隷になりなさい。」と言われます。イエス様のこのことばに弟子たちは、「自分たちの常識とはまったく逆のことを言われている」ということで驚いたのではないでしょか。弟子たちが驚いたように、イエス様が言われたことばは、私たちの社会の流れとは、真逆の考え方と言ってもいいでしょう。私たちの社会で、偉くなりたい人は、いろいろな手を使って偉くなろうとします。また、高学歴を積み、高収入を得て少しでも楽な暮らしを目指そうとしています。私たちは、自分の位置を少しでも優位に立つようにし、人からの称賛を受けることを好んでしまう傾向があります。しかし、イエス様の教えは、そうではありませんでした。イエス様は、「みんなに仕えなさい、しもべとなりなさい」と言われます。

 この【しもべ】というのは、すべての人のために仕える、奉仕する姿です。私たちが人々に【しもべ】として仕える時、自分の時間、知識、労力、ときには愛情までも与えなければならないこともあります。そこには、相手に対しての深い愛がなくしてはできないものです。イエス様は、人の子が来たのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くのあがないとして、自分の命を与えるためである」と言われます。パウロは手紙の中で、「キリストは神の身でありながら、神としてのありかたを固執しようとはせず、かえって自分をむなしくして、しもべの身となり、人間と同じようになった。その姿はまさしく人間であり、死にいたるまで、十字架の死にいたるまで、へりくだって従う者となった。」(フィリピ2・6〜8)とイエス様のことを伝えています。

 イエス様は、私たちに対してご自分に倣いなさいと言われているのではないでしょうか。イエス様は、「わたしの後に従いたい者は、おのれを捨て、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい」(マルコ8・34〜35)と言われました。私たちは、イエス様に従う中で【おのれを捨てる】ということが人々に【仕える】方法ではないでしょうか。私たちは、イエス様が教えてくださったように、私たちの身近な人に対して仕える者となりたいものです。私たちは、お互いが仕えあい、支えあう時、そこに愛が生まれるのではないでしょうか。私たちは、苦しみを伴い、さまざまな葛藤に合い、お互いが歩んで行く時、イエス様が歩まれた道を歩むことになると言ってもいいのではないでしょうか。このみことばを通して、【お互いが仕え合う】ことを深めることを黙想していきたいと思います。