井手口満修道士のこれって、どんな種?
神の子と呼ばるという種
〈諸聖人〉マタイ5・1〜12a
建築家が建物を建てる時には、まず、自分の頭の中にあるイメージを基に設計図を作成します。次に、その設計図を基に人々は、具体的な作業に入って行きます。また、オーケストラで演奏する人たちは、作曲者が書いた楽譜にそって自分に与えられたパートを指揮者の指揮によって忠実に演奏して行きます。建築家の設計図や作曲家の楽譜は、これから完成される作品のために欠かすことができないものです。
さて、きょうのみことばは、イエス様が弟子たち(私たち)に対して示された一つの設計図や楽譜のようなものではないでしょうか。イエス様は、弟子たち(私たち)をおん父がおいでになる天の国へと導くためにこの世に来られたと言ってもいいでしょう。みことばの最初は、「イエスはこの人々の群れを見て、山にお登りになった。そして、腰をおろされると、弟子たちが近寄って来た。イエスは口を開き、こう教えられた」とあります。まず、イエス様は、【山にお登りになる】とありますが、聖書の中の【山】は神聖な場所とされているとことです。次に、【腰をおろされる】は、ユダヤ人の教師が人々に教えるときの姿勢でした。そして、最後に「【口を開き】こう教えられた」とありますが、「これから大切な内容を伝える」ということを意味していました。イエス様は、神聖な場所で、教師として、大切なことを話されたのです。
ちなみに、ルカ福音書は、「イエスは使徒たちとともに山を下り、平らな所にお立ちになった。」(ルカ6・17)となっています。このことは、マタイは、主にエルサレムを中心に住んでいたユダヤ人に向けて福音書を書いたのに対して、ルカは、主にパレスチナ地方以外の土地に移り住んでいたユダヤ人や異邦人たちに向けて書いたようです。そのため、マタイはイエス様が、ユダヤ人に対して教師の姿をとりながら人々に伝えるというように書いたのでしょう。
さて、マタイ福音書では、イエス様が弟子たちを召し出し本格的に宣教を始めようとする場面で、きょうのみことばを書いています。このことから、マタイはイエス様と共に歩いて行こうとする、弟子たちに対して、また、私たちキリスト者に対して、「指針」を伝えているのではないでしょうか。イエス様は、私たちが【天の国】に入るためには、どのような生活をしなければいけないのか、そして、日々の生活の中で起こることに対してどのような心構えで歩いて行くかということを伝えているようです。
イエス様が勧められる八つの教えは、ご自分のために「貧しさ、悲しみ、飢え、迫害、悪口」といったものを乗り越えることで、最高の幸せである【天の国】に入ることができる、と言われておられています。イエス様は、おん父から私たちの罪をあがなうために、十字架への道を歩まれます。その道を歩まれるイエス様のお姿は、貧しく、人々からは悪口を言われ、迫害される道でした。イエス様の宣教のお姿は、柔和で、心が清く、平和をもたらされておられました。このように考えますと、きょうのみことばの一節一節は、イエス様ご自身が歩まれた道であるとともに、私たちを【天の国】へ導く道しるべと言ってもいいでしょう。
この八つのみことばは、「……人は幸いである、その人は……であろう(または、その人ものだからである)。」となっています。ここには、【……】を行う私たちと、それを与える【おん父】の姿があるのではないでしょうか。このように考えて行くと、一節一節の中に、おん父の寛大さと愛を感じることでしょう。その中の一節に「平和をもたらす人は幸いである。その人は神の子と呼ばれるであろう」とあります。私たちは、自分の弱さのために罪を犯し、時には、イエス様に顔を向けることもできないような罪も犯してしまうこともあります。そんな私たちをイエス様は、お許しになられ、愛してくださいます。
私たちは、罪が許されイエス様と共に歩み、イエス様の平安に満たされた私たちが、今度は周りの人たちに【イエス様の平和】を伝えて行くことができるのではないでしょうか。きょうのみことばを黙想しながら、【神の子】として天の国に入ることができますように、イエス様との平安を願い、祈って行きたいたいものです。
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