主の道を整える種 - これって、どんな種?

井手口満修道士のこれって、どんな種?

主の道を整える種

〈待降節第2主日〉ルカ3・1〜6


 人は、「年を取るにしたがって丸くなる」と言われます。若い時には、すべてにおいて何でもできる、自分の思い通りに物事が進むというように考えることでしょう。しかし、年を取る事でうまく行かないこともある、と気がつくことで少しづつ丸くなるということ。または、人生において若い人より、ゆとりが出て来るという意味なのでしょうか。このことは、神様と私たちの関係においても言えるのではないでしょうか。私たちが、自分の力で何でもできる、と思っている時には神様の力は、十分に発揮できませんが、私たちが自分の弱さ、限界に気がついた時に、初めて神様の力が働くのだと思います。

 さて、きょうのみことばは、荒れ野で神様のことばが洗礼者ヨハネに下るところから始まります。荒れ野というのは、人間が生きる上で厳しい自然環境です。日中は、太陽の光と熱で気温が上がり、夜は、日中とうってかわってとても冷え込みます。また、野獣や盗賊などに襲われるという危険もあります。水もなく、草木もほとんどない状態です。そのような状態では、神様からの救いなしには、生きる事ができません。神様は、そんな荒れ野にいる洗礼者ヨハネにお声をかけられたのです。

 ヨハネは、神様からの声かけに応えて、人々に罪のゆるしを得させるために、悔い改めのしるしである洗礼を宣べ伝えます。ヨハネの使命は、イエス様が宣教される前の準備として、悔い改めのしるしである洗礼を宣べ伝えます。みことばは、イザヤ書の40・3〜5のことばを引用しています。この箇所は、イスラエル民が自分たちの犯した罪によって、バビロンに捕えられたことを悔やみ、おん父に祈った時のことです。そして、このみことばは、おん父が、彼らの悔い改めの祈りを聞き入れ、イザヤを通して告げられた言葉でした。

 「荒れ野で叫ぶ者の声がする。」というのは、おん父がイスラエルの民が犯した罪をゆるすための声でした。同じように、このおん父の声は、イエス様の救いの業が行なわれることを、ヨハネを通して人々に伝えるための声と言ってもいいでしょう。おん父のみことばは、「主の道を整え、その歩む道をまっすぐにせよ。」と始まります。おん父は、「主の【道】を整え、その歩む【道】をまっすぐにせよ。」と、言われます。【道】とは、私たちの歩み、生活、人生のことを指しているようです。私たちの人生は、おん父と共に歩む道です。しかし、私たちの道は、弱さやエゴ、罪によっていつの間にか、谷や山や丘となり、さらに、曲がりくねり、でこぼこな道となってしまっているようです。そのために、おん父は、私たちにみことばを通して、「主の【道】を整え、その歩む【道】をまっすぐにせよ。」と言われているのではないでしょか。

 ただ私たちは、これらの道を自分たちの力で整える事ができないのです。この【道】をまっすぐにしてくださる方は、おん父の業であり、イエス様の働きなのです。私たちの【道】は、おん父とイエス様の愛によってまっすぐに舗装されることで救いへと行く事ができるのです。イザヤの引用の最後には、「人は皆神の救いを見るであろう」とあります。私たちの山あり、谷あり、さらにでこぼこで曲がりくねった道が、神様の愛の業によって救いへの【道】となるのです。

 このみことばは、おん父の豊かな愛を私たちに伝えると同時に、私たちがヨハネと同じように、おん父の声を荒れ野である今の社会に伝えるという使命があることを気づかせてくださっている、と言ってもいいでしょう。マザー・テレサは、コルカタでおん父の声を聞き、インドの貧しい人のために働かれました。彼女の働きは、『神の愛の宣教者会』という修道会を設立を通して全世界に広がっています。このように、おん父の小さな声は、私たちにも響いているのです。私たちは、その声に耳を傾けるだけでいいのではないでしょうか。後は、おん父が私たちを上手に使われ、主の道を整え、その歩む道をまっすぐにされるのです。

 私たちは、きょうのみことばを黙想しながら、私たちの心を整えると同時に、私たちの周りの人に対しておん父のみことばを伝える事ができるようにおん父に祈って行きたいものです。