できることを行ないながらイエス様を待つ種 - これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

できることを行ないながらイエス様を待つ種

〈待降節第3主日〉ルカ3・10〜18


 マザー・テレサは、コルカタ(カルカッタ)で、多くの人が路上で亡くなっているのを見て、哀れに思い、彼らを『死を待つ人の家』に連れて行きそこで、人として愛の中で看取るということをしていました。また、病気の人には医療を施し、癒し、捨てられた子供を引き取り看病し、教育を施していました。マザー・テレサは、彼ら一人ひとりの中にイエス様の姿を見ていたので、彼らのために何かをしなければいけないと感じたのでした。

 彼女の最初の頃の活動は、本当に小さいものでした。しかし、彼女の精神に従って生きようとする人が増え始め、今では世界中に広まり、『神の愛の宣教者会』の会員としてとしてマザー・テレサのカリスマを多くの人が生きています。また、各国からマザー・テレサの精神に感化された人たちがインドや全世界でボランティアとして彼らの活動の手伝いをしています。

 マザー・テレサは、生前、彼女のもとに来た人たちに「あなたたちは、自国に帰り日常の生活に戻ってからも、あなたたちのコルカタを見つけなさい。そこで、貧しい人、孤独な人、愛に渇いた人に対して愛を与えなさい」と言っていました。

 さて、きょうのみことばは、ヨハネが群衆に対して「……おのはすでに木の根元に置かれている。だから、良い実を結ばない木は皆切り倒され、火に投げ入れられるのだ」(ルカ3・9)と話をした後の場面です。群衆はこのヨハネの言葉を聞いて「では、わたしたちはどうしたらよいのでしょう」と質問します。ヨハネは、彼らの質問に対して「下着を二枚持っている者は、持ってない者に分けてやりなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい」と答えます。群衆は、このヨハネの答えに対して驚きます。当時のユダヤ教の教えでは、祈ったり、断食をしたり、特別な施しをしたりということを行なっていました。しかし、ヨハネの答えは、人が当たり前に生きるための、衣食への愛の奉仕だったのでした。

 次に、徴税人たちや兵士たちがヨハネに同じように「わたしたちはどうしたらよいのですか」と質問します。ユダヤの社会の中で徴税人や兵士は、罪人というレッテルを貼られていたのでした。それで、彼らは、「自分たちも救われるためにどうしたらよいのか」と真剣に思っていたのでしょう。ヨハネは、彼らに対しても同じように徴税人には「規定以上に取り立ててはならない」と、兵士たちには、「だれからもおどし取ったり、ゆすり取ったりしてはならない。自分の給与で満足しなさい」と答えました。当時の兵士たちの給与は、非常に少なかったようです。

 徴税人は、同じユダヤ人たちのお金をローマ帝国のために徴収し、兵士たちは、自分たちが使えている王や貴族が贅沢をしているのにたいし、わずかな給料しか与えられず、危険な目に遭わされているというストレスから自分たちより弱い人々に暴力をふるったり、揺すったりしていたのでしょう。ヨハネは、そんな彼らに対して本当に救われたいのなら公正な生活をしなさい、と答えたのでした。

 彼らの行ないは、今の私たちの社会の中にも起こりうる危険性があるかもしれません。ヨハネの教えは、社会の貧しさや、政治的な不安からくるストレスに対する間違った傾きを正しい方向へ修正しながら、人として自分たちの生活の中で隣人愛を行なうことを勧めていました。

 ヨハネの周りに集った人たちは、自分たちの状況を受け入れ、その状態から救われるためには、どのようにしたら良いのかという、心からの救いを求めていました。それで彼らは、ヨハネのことをメシアだと思っていたのでした。ヨハネは、彼らに向かって「わたしは水であなたたちに洗礼を授けるが、わたしより力のあるかたが来られる。わたしはそのかたのはきもののひもを解く値うちさえもない。そのかたは聖霊と火によって、あなたたちに洗礼をお授けになるであろう」と答えます。ヨハネの水による洗礼は、イエス様が来られる準備としての「罪のゆるしを得させるための、悔い改めの洗礼」(ルカ3・3)でした。ヨハネの洗礼は、イエス様が来られて聖霊と火によっての洗礼を授けるための準備だったのでした。

 ヨハネは、自分のことをイエス様と比べ「はきもののひもを解く値うちさえもない」と言います。当時、はきもののひもを解いていたのは、奴隷の仕事だったのでした。ヨハネは、自分のことをメシアではなくイエス様と比べてしまえば、取るに足らない者と言っていたのでした。ヨハネには、たくさんの弟子たちがいたのでした。それでも、彼は決して高ぶることなく謙遜に、自分が行なうことをしっかりと受け入れていたのでした。

 さらに、ヨハネは、後から来られるイエス様のことを「手に箕を持ち、麦打ち場の麦をふるいに分け、麦は倉におさめ、もみがらは消えることのない火で焼かれるであろう」と言います。これは、イエス様が授けられる聖霊と火による洗礼にふさわしい愛の生活をしているか、してないかというふるいにかけられるということではないでしょうか。マザー・テレサは、「どれだけ多くの仕事をしたかではなく、どれだけ愛を持って行なったか」と人々に言っていました。私たちは、自分たちがどのくらい立派な業績をあげたか、という評価をし、またされてきました。いくら、努力しても実らない成果よりも、成果や実績を重要視される社会で生きています。しかし、イエス様やヨハネの教えは、「自分の持っているものを人に施すこと。自分の生活の中でできることで貧しい人、愛に飢えている人に愛を満たすこと」でした。

 ヨハネの教えは、皆が理解できる生活に根ざした教えでした。そのような教え方を用いて、あくまでもイエス様がこられる準備をしていたのでした。そして、人々に対して、メシアが来られるという希望と喜びを与えていたのでした。

 私たちは、きょうのみことばから、特別な犠牲ではなく、日常の生活の中でできる範囲の愛の行いをし、イエス様が来られる準備をすることを黙想できるのではないでしょうか。もうすぐお生まれになられるイエス様へのふさわしいお捧げものを準備したいものです。