謙遜な心でみことばを聴くという種 - これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

謙遜な心でみことばを聴くという種

〈年間第4主日〉ルカ4・21〜30


 人が人を好きになる嫌いになる、または、愛する、憎むという感情は、とても面白いものです。昨日まで好意を持っていた人に対して、何かのきっかけで嫌悪感を持つということがあります。その心の変化の中には、何か余程のことがあったことなのでしょう。たとえは、当てはまりませんが、「可愛さ余って憎さ百倍」ということわざがあります。これは、一つには、相手に対して愛情が大きいだけに、憎しみに変わるとその愛情の分だけ憎くなるという、愛情の深さの表現のようです。これとは、別に本当に、今まで身近に接していた人が、急に偉大になったりすると、遠い存在になったり、逆にひがみややっかみという感情を持つようにもなることもあります。

 さて、きょうのみことばは、イエス様が郷里のナザレに帰られ会堂で、人々にみことばを伝え終えた後の場面です。ナザレの人たちは、ガリラヤ地方でイエス様が行なわれた奇跡のニュースも耳に入っていまし、今、イエス様が語られた話を聞いてとても興奮していたのでしょう。みことばは、「人々は皆イエスをほめ、その口から出る恵みに満ちた言葉に驚き」と伝えています。しかし、イエス様は、彼らのイエス様に対する称賛の言葉に対して興味を持たれませんでした。それよりも、イエス様は彼らの心の中をご存知だったのです。イエス様は、ナザレの人々が、イエス様に対して、ガリラヤで行なった奇跡や癒しを当然自分たちの町、ナザレでも行なうべきだ、という心を持っていたことに気がついていたのです。そのためイエス様は、「『カファルナウムでおまえはいろいろなことをしたと聞いたが、そのようなことをおまえの郷里のここでもおこなえ』とわたしに言うであろう」と言われたのでした。

 イエス様は、彼らの心を見抜いておられたので、旧約聖書の中のエリヤやエリシャが異邦人だけに対して行なった奇跡話をされました。イエス様は、イスラエルの一部の中にある【選民意識】という傲慢さや、不信仰さに対して厳しい態度を取っていました。これらの、傲慢さは、人の純粋な心を曇らせるものでした。イエス様は、心から自分の清さ、慰めを求めている人の所に足を運ばれていました。ですから、イエス様は、ナザレの人々が【みことば】ではなく、その後の奇跡の方に興味を持っていたことに対して「預言者は、自分の郷里では受け入れられないものだ」と嘆かれたのでした。

 人々は、イエス様の会堂での話を聞いた後に、「この人はヨセフの子ではないか」と言います。ナザレの人々は、イエス様が子どもの時に、ヨセフ様やマリア様の手伝いをしていたこと、自分たちもイエスさと一緒になって遊んだり教えを学んだりしたことなどを覚えていましたし、イエス様のことを良く知っていました。しかし、残念なことに彼らは、イエス様が神の子でありメシアであるということに対しては、気づいていなかったのでした。ナザレの人々は、あまりにイエス様と身近であったため、人間としてのイエスだけしか見えていませんでした。そのために、イエス様が朗読されたイザヤ書の「主の霊がわたしの上におられる。主はわたしに油を注ぎになったからである」(ルカ4・18)の言葉を素直に聞入れることができなかったのです。さらに、イエス様が彼らに言われた「この聖書の言葉は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」(ルカ4・22)という言葉に対して、一時は、感嘆したものの、後になって怒りへと変わって行ったのでした。ナザレの人たちは、イエス様を町の外に追い出し、町の経っている山のがけまで連れて行き、突き落とそうとします。しかし、イエス様は、人々の間を通り抜けて、去って行かれた、とみことばは伝えています。

 私たちは、きょうのみことばから、自分が洗礼を受けているから、ミサに与っているから、教会での活動をしているから当然恵みをいただけるはずである、という慢心への傾きを反省する材料になるのではないでしょうか。私たちがいただくおん父からの恵みは、私たちが要求していただけるものではありません。私たちは、まず、イエス様の前で心から「主よ、私を助けてください。癒してください。」という謙遜な心が必要なのではないでしょうか。私たちは、イエス様のみことばを心のから受け止め、そのみことばに倣って歩きたいものです。