おことばに従うという種 - これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

おことばに従うという種

〈年間第5主日〉ルカ5・1〜11


 イエス様がよく宣教活動されていた場所は、ガリラヤ地方でその中でも、ゲネサレト湖(ガリラヤ湖、ティベリア湖ともいう)の北側の約3分の1だったようです。そこは交通の要でもあり、異邦人の文化も入っていて活気に満ちた町だったようです。

 きょうのみことばは、そのようなゲネサレ湖畔でイエス様が群衆に教えを説かれていた場面です。群衆は、イエス様の評判を聞いてイエス様のもとに集まってきました。イエス様は、シモンの【舟】に乗られ岸から少し離れるように頼まれ、【座られて】お話になられます。まず、イエス様が乗られた【舟】というのは、教会を表しているのではないでしょうか。みことばは、イエス様が、舟という教会から人々にみことばを伝え宣教される、ということを意味しているのかもしれません。また、イエス様が【座られて】、教えを話されますが、当時のラビが人々に教えを説かれるときには、座ることによって人々に話し始めるという習慣があったようです。

 イエス様は、人々に教えを説かれた後、シモンに「沖に乗り出し、魚を捕るため網をおろしなさい」と言われます。シモンは、「【先生】、わたしたちは夜どおし働きましたが、何も捕れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と答えます。そして、そのとおりにすると、おびただしい魚がかかり、網が裂けそうになります。シモンたちは、漁師であり魚を捕る専門家でしたから、湖の状態やどの時間のどの場所に魚がいる、ということなどを熟知していたはずです。そのシモンたちでさえ、一晩中仕事をしても魚一匹とることができなかったのです。イエス様は、そんな彼らに対して、「沖に乗り出し、魚を捕るため網をおろしなさい」と言われたのでした。シモンは、まったくの素人であるイエス様に、そのように言われたのにも関わらず、「『お言葉ですから、網をおろしてみましょう』と答えます。そして、【そのとおりにすると】」、網が裂けるほどの魚が捕れたのでした。

 ここで、大切なことは、シモンがイエス様のことばを信じて、【そのとおり】、つまり、みことばのとおりに実行したことでした。もし、シモンが「何も分からない素人が何を言っているのか」と言って信用しなかったらこのような奇跡は起こっていませんでした。また、イエス様がシモンに言われた「沖に乗り出し、魚を捕るため網をおろしなさい」という言葉は、私たちの福音宣教の姿を示しているのではないでしょうか。私たちの宣教は、イエス様が一緒に乗られている舟である教会から、沖に乗り出して行かなければならないと、イエス様が示されておられるのかもしれません。

 さらに、みことばは「そこで、ほかの舟の仲間たちに合図をして、加勢に来てもらったが、二そうの舟に魚がいっぱいになり、今にも沈みそうであった」と書かれています。ここでも、私たちの宣教のヒントがあるような気がいたします。一つは、シモンの舟だけではなくもう一そうの舟に応援を頼んだことです。これは、宣教は一人(個人)ではなく教会という【共同体】の中で行なうということを教えているのかもしれません。ルカ福音書の別の箇所で「……、主は別に七十二人を指名し、ご自分が行こうとしているすべての町や村に、二人ずつ、先にお遣わしになった」(ルカ10・1)と書いています。このように、私たちは、宣教を行なうときには、たとえ一人で行なっているとしてもそれは、教会という共同体の一人として行なっていると言ってもいいでしょう。教会の働きは、イエス様の教えに信頼し、おことばのとおりに行なうことでより多くの魚である、信徒をすなどることができるのではないでしょうか。

 シモンは、イエス様の業を目の当たりにして彼自身がいかに小さく、貧しく、罪深い者であったか、ということに気がついたのでした。それで、「【主よ】、わたくしから離れてください。わたくしは罪深い者です」と言います。シモンの心は、イエス様を舟に乗せた時のままではありませんでした。それは、シモンがイエス様に対して、「先生」から「主よ」という呼び方に変わっています。シモンにとって、イエス様は、ただの【先生】ではなく【主】という神聖な方になっていたのでした。イエス様は、そんなシモンに対して「恐れることはない。これから後、あなたは人をすなどるようになるであろう」と言われます。そのことばを聞いたシモンたちは、いっさいを捨ててイエス様に従って行くのでした。彼らに対して、イエス様との出会いは、【いっさいを捨てる】ほどの衝撃的なものだったのでしょう。

 私たちは、イエス様と出会い洗礼を受けました。それは、教会から放たれた網にかかったのと同じではないでしょうか。そして、今度は、私たちが人をすなどるものとなったのです。きょうのみことばは、シモンの召命というテーマのようですが、私たち一人ひとりの召命に置き換えてもいいのかもしれません。私たちにとってイエス様との出会いは、【いっさいを捨てる】ほどのものなのです。そして、そのようにすることによって、シモンたちのように多くの魚を得ることができるのではないでしょうか。私たちは、ただ「お言葉ですから、網をおろしてみましょう」と言っておろすだけでいいのです。