井手口満修道士のこれって、どんな種?
幸せになる種
〈年間第6主日〉ルカ5・1〜11
私たちは、【幸せ】になることを望んで生きている、と言ってもいいでしょう。ただ、人によって【幸せ】という感覚が違いはあるでしょうが、みんな人は【幸せ】を求めて生きていることと思います。
きょうのみことばは、イエス様が私たちに【真の幸せ】を教えてくださっている場面です。この箇所は、マタイ福音書の5章にから始まる【山上の垂訓】の中の『真福八端』と呼ばれる箇所と同じような箇所です。しかし、マタイが8つの【幸せ】を表しているのに対して、ルカでは4つの【幸せ】とマタイにはない4つの【不幸】を付け加えています。また、マタイ福音その中では、「イエスはこの人々の群れを見て、【山にお登りになった】」(マタイ5・1)に対してルカでは、「イエスは使徒たちとともに【山を下り、平らな所にお立ちになった】。」となっています。これは、マタイがユダヤ人を対象にして教師の姿としてイエス様を表しているのに対して、ルカでは、異邦人に対して、神聖な山から人々の中へ下りて来られたイエス様を表しているようです。
また、ルカでは、「貧しさ」「飢え」「悲しさ」などを感じている「あなたがた」と書くことによって、より私たちにイエス様の【幸せ】を深く、身近に感じることができるということを伝えているのではないでしょうか。さらに、ルカは【今】ということを付け加えながら、私たち一人ひとりがイエス様と共に【今】を意識し、大切にしながら生きるということを伝えているのではないでしょうか。
マタイ福音書で伝える【幸せ】もルカ福音書で伝える【幸せ】も同じように、私たちが考える【幸せ】とは、全く反対のことを伝えています。むしろ、私たちは、ルカが4つの【幸せ】を伝えた後に書かれてある4つの不幸の方を【幸せ】と感じているのではないでしょうか。私たちは、貧しい状態よりも富みを望み、空腹よりも満腹を、悲しみよりも、笑いを望んでいます。もちろん、このように思う感情は間違いではありません。ただ、ルカはここで、これらの富や満腹、笑える状態に固執することがないようにと言うことを伝えているような気がします。
みことばは、真の【幸せ】は、イエス様と共にいる、ということを私たちに伝えているのではないでしょうか。洗礼の恵みをいただいた私たちは、イエス様と共にいる、と感じているときが真の幸せの状態と言っても過言ではありません。イエス様は、「人の子のために、人々があなたがたを憎み、追い出し、ののしり、あなたがたの名を汚らわしいものとして葬り去るとき、あなたがたは幸いである。」と言われます。このイエス様のみことばは、前の3つの【幸せ】と違って、第三者からの迫害、圧力が加わっています。私たちが幸せになるということは、イエス様のために、「憎まれること」、「追い出されること」ということです。当時のユダヤ人にとって、ユダヤ教的社会から【追い出される】ということは、生活して行くことができない、死活問題であることを意味することです。
さらに、イエス様は、「ののしられ」「あなたがたの名を汚らわしいものとして葬り去られる」とい言われます。ユダヤ人たちは、【汚れる】ということを大変忌み嫌っています。しかも、汚れる対象は、【あなたがたの(わたしたちの)名】なのです。私たちは、名が汚れると言われてもピンと来ませんが、聖書の中で【名】というものは、○○さん、という【名】だけではなく、その人の人格全体を意味するものです。そのため、「名を汚される」ということは、その人の全人格を汚され、否定されるということなのです。
イエス様が教えている【幸せ】は、貧しさや飢え、悲しみだけではなく、もう落ちることができない所まで落ち、ボロボロな状態まで第三者から蔑まれることなのでした。イエス様は、そのような状態に陥った私たちに対して、「その日には喜び踊れ。天におけるあなたがたの報いは大きい」と言われます。この言葉は、全く矛盾を感じます。しかし、良く考えてみましょう。このボロボロの姿は、イエス様が十字架を担がれたお姿ではないでしょうか。イエス様は、私たちだけにボロボロの姿を要求されたのではないのです。イエス様は、ご自分が歩まれた十字架への道を、私たちが歩むことで真の【幸せ】を得られると教えておられているのではないでしょうか。
きょうのみことばを黙想しながら、私たちは、ボロボロになりながらも自分の十字架を担って歩むことができるように、信仰と希望をイエス様に願いたいものです。
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