イエスさまだけを目標とする種 - これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

イエスさまだけを目標とする種

〈四旬節第2主日〉ルカ9・28〜36


 私たちは、ある目標に向かって歩いています。その目標に向かうために、ときには、いくつかの課題を課しながら目標に近づく努力や工夫をして向かう場合もあることでしょう。今私たちは、教会の典礼では四旬節を過ごしながら、主の復活の準備をしています。この復活は、私たちにとって霊的な目標と言ってもいいのではないでしょうか。私たちが、この復活の恵みを味わうことは、イエス様との一致の至福を味わうことと言えるでしょう。しかし、真の意味での主の復活を味わう道に至るまでは、時として迷いや、犠牲など困難さを伴うこともあります。

 きょうのみことばは、主の変容の場面です。みことばは、イエス様が弟子たちにエルサレムでご自分が受ける、受難と死、そして復活について話されてから、八日ほど経ったと伝えています。弟子たちは、イエス様が【メシア】として、自分たちをローマ人の圧政から救ってくれると信じていました。そのため彼らは、イエス様の受難の話を聞いて不安に覚えていたことでしょう。そのような時に、イエス様は、ペトロとヨハネとヤコブの三人だけを連れて祈るために山にお登りになられます。聖書の中で山は、神聖な場所、日常の世界ではない場所です。そこへイエス様は弟子たちを連れて祈るために行かれたのでした。

 イエス様が祈っている時に、神様から律法をいただいたモーセと預言者エリアが現われ、イエス様とエルサレムで成し遂げようとする【最期】について話を始められます。この三人の話し合いは、旧約を代表とする二人と、新約のイエス様という新約と旧約の交わりであり、神様のご計画の完成に向かう大切な会談とも言えるものではないでしょうか。しかし、残念ながら弟子たちには、眠たくてたまらなかったのです。このような神体験を体験できるというのは、滅多にできることではありません。きっと、弟子たちの心は、あまりにもリラックスして気持ちがよかったのではないでしょうか。ただ、ペトロだけは、眠たいながらもこの体験で何かを感じたのでしょう。彼は、はっきり目を覚まし、この三人の栄光に包まれた姿を見ます。この、【見る】ということが大切なことではないでしょうか。きっと、ペトロは、信仰の目で見たのだと思います。そして、彼は、「先生、わたくしたちがここにいるのは、すばらしいことです。わたくしたちは三つの仮のいおりを造りましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリアのために」と言います。ペトロは、この場を信仰の目で【見る】ことでようやく「すばらしいこと」ということが分かったのでした。

 さて、みことばは、ペトロがこのように言っているうちに、雲が現われて彼らを覆ったと伝えます。聖書の中で【雲】はいろいろな意味を表していますが、その中の一つに神様が臨在されている所として表されています。その雲の中からおん父は、弟子たちに向かって「これはわが子、われに選ばれたる者。彼に聞け」と言われたのでした。さらに、みことばは、「声がやんだとき、イエスだけがおられた。」と伝えます。このことは、私たちにとって黙想の材料になるのではないでしょうか。この主の変容の場面は、神の国での姿であり、四旬節の典礼の中で読まれることで、復活した状態を伝えていると言われている箇所です。この場面は、ペトロも言っているように「すばらしいこと」ですが、それだけに留まることではない、ということを教えているように思えます。

 きょうのみことばは、すばらしい体験の心地よさに酔うのではなく、イエス様だけを見つめることが大切です、と伝えているような気がします。おん父は、「これはわが子、われに選ばれたる者。彼に聞け」と弟子たちに言われたように、私たちにも「これはわが子、われに選ばれたる者。彼に聞け」と言われておられるのです。私たちは、信仰生活を送る中で霊的な心地よさだけではなく、むしろ困難さの方が多いような気がいたします。そのような時にこそ、私たちは、おん父が言われた「これはわが子、われに選ばれたる者。彼に聞け」という言葉に力をいただくことができるのではないでしょうか。さらに、おん父の声の後に、【イエスだけがおられた】というみことばは、私たちの唯一の目標がイエス様だけであることを伝えていると言えます。私たちは、きょうのみことばを黙想しながらイエス様という目標を見失うことなく、よい主の復活の準備をしたいものです。