井手口満修道士のこれって、どんな種?
おん父へ向かうという種
〈四旬節第4主日〉ルカ15・1〜3、11〜32
レンブラントの作品の中に『放蕩息子の帰郷』という作品があります。ルカ福音書の『放蕩息子』箇所で、父親が回心して帰って来た息子を包容している有名な絵です。この絵は、何とも言いようがない父親の愛、そして、自分の罪を悔いる息子の姿が印象的です。
きょうのみことばは、この『放蕩息子』の箇所です。ファリサイ派の人々は、イエス様が徴税人や罪人と言われている人たちと食事をしていることを指摘したことからこのたとえ話が始まります。
弟は、父親に「お父さん、わたしのもらうべき財産の分け前をください」と言います。父親は、兄と弟へ自分の財産を分け与えます。弟は、自分に分け与えられた財産をまとめて遠い国へ旅立ちます。私たちは、親の財産を相続する時に、親が亡くなってから遺産を分配しますが、ユダヤ人の社会では、まだ親が生きている間に、財産を分配することは珍しいことではなかったようです。弟は、きっと今まで手にしたことがない大金だったのでしょう。みことばは、「そこで放蕩に身を持ちくずし、財産をむだ使いした。」とあります。弟の周りには、彼のお金目当ての友達が集まり、酒や女、宴会、ありとあらゆる楽しみに興じたのでしょう。彼は、それらで父親からいただいた大切な財産を使い切ったのです。運が悪いことにそんな時に、その地方に飢饉が起こり、弟は、食べるものにも困るほどになります。
「金の切れ目は、縁の切れ目」という言葉がありますが、まさに、それまで彼と一緒に楽しんでいた友達は、一人もいなくなり、彼が困難に陥っても、助ける人もいない状態でした。彼は、その地方の地主のところに行って、ユダヤ人が忌み嫌っていた豚の世話をさせられます。そして、豚のえさであるいなご豆で空腹を満たそうとしますが、それさえも、食べることができない状態でした。このことは、ユダヤ人である彼にとってかなり屈辱的な状態だったはずです。このような状態になってようやく、父親のことを思い出します。みことばは、「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、食べ物があり余っているのに、わたしはここで飢え死にしようとしている」と弟の心の変化を伝えます。そして、彼は、「お父さん、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。どうかあなたの雇い人の一人にしてください」と言おうという悔い改めの気持ちが起こり、父親の所へ戻る決心します。
さて、この部分は、一つの山場と言ってもいいでしょう。父親の財産を貰い受け、さらに、家を飛び出して放蕩で身を持ちくずした弟が、回心する場面です。この箇所は、黙想する材料があるのではないでしょうか。父親はおん父であり、息子は私たちと言ってもいいでしょう。私たちは、おん父から莫大の財産をいただいています。しかし、それも私たちの使い方では、無くなってしまうのです。ここで、この父からの財産は、【聖成の恵み】であり、どん底の状態になった息子がおん父へ回心する気持ちが【助力の恵み】と言えるような気がいたします。おん父は、私たちにくださった莫大な財産の中には、私たちがご自分の方へ立ち返るという【力】もあるのではないでしょうか。
父親は、まだ遠く離れていた息子に気がつき、哀れに思い、走り寄って首を抱き、口づけを浴びせます。息子は、やっと父親のもとに帰り着いたことを実感しますが、あの言葉、「お父さん、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。……」と言います。しかし、父親は、息子がすべてを言い終わらないうちに「急いで、いちばん良い着物を出して、この子に着せなさい。手には指輪をはめ、足にははき物をはかせなさい。……」と、息子が帰って来たことを喜びます。この場面は、レンブラントの絵の場面です。心身共にぼろぼろの息子に対して父親は、人間らしい服装を与え、指には、権威の印としての指輪を与えます。また、足にははき物とありますが、これは、はだしというのは、当時の奴隷の状態だったようです。父親であるおん父は、回心して来た息子に以前にも増して良い状態にして、彼を迎えたのでした。
いっぽう、畑から帰って来た兄は、父親が帰って来た弟のために祝宴を開いているのを見て不機嫌になります。兄は、弟が出て行ったのに対して、父親の言いつけにもそむかず、忠実に家を守って来ていました。それにも関わらず、自分が友人と祝宴を開くために子やぎ一頭ももらうこともできなかった、ということを、父親にくってかかります。みことばは、「このあなたの子が……、ふとらせた子牛を彼のためにほふります」と兄の悔しさを伝えています。兄は、弟のことを素直に弟と言わずに【このあなたの子】と言っています。さらに、自分には、子やぎ一頭もくれなかったのに、なぜ【このあなたの子】には、ふとらせて子牛なのか、と怒りをぶつけています。当時、イスラエルでは、やぎも食用として用いられていましたが、やぎよりも一般的には羊の方が重んじられ、さらに、牛は高級な食物として用いられていました。
きょうのみことばは、父親、兄、弟とそれぞれに立場から、黙想することができます。父親であるおん父の愛、弟や兄の姿は、私たちの弱さ、罪深さが表れているのではないでしょうか。お気づきかもしれませんが、レンブラントの『放蕩息子の帰郷』の中で息子を抱きしめている父親の左右の手は、父親の愛を表す手と母親の愛を表す手と言われているように違う表し方で描かれています。私は、この優しい手というのは、イエス様の手のように感じられます。
きょうのみことばの冒頭でのイエス様とファリサイ派の会話を思い出してみましょう。イエス様はみことばを通して何を言いたかったのでしょう。ルカ13章のぶどう園の実がならないいちじくの木のたとえでは、「このいちじくの実を捜しに来ているのに、一つも【見当たらない】。……」(ルカ13・7)とありました。しかし、きょうの箇所の最後には、「おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに【見つかったのだから】、わたしが祝宴を開いて喜び合うのはあたりまえではないか」とあります。イエス様は、ファリサイ派の人々の心の中には、【悔い改めの実】を見いだせなかったのに対し、放蕩息子の中には【悔い改めの実】を見いだすことができた、ということを伝えようとしていたのではないでしょうか。
きょうのみことばから、おん父は、私たちがどんなにどん底の状態であっても、悔い改めて立ち返ろうとする時、いつでも抱きしめてくださるお方、ということを黙想できるのではないでしょうか。
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