井手口満修道士のこれって、どんな種?
罪が許されるという種
〈四旬節第5主日〉ヨハネ8・1〜11
オリーブ山からエルサレム旧市街地を眺めると、以前はエルサレムの神殿があり、今はムハンマドが昇天したと言われる、金色の【岩のドーム】が目を引きます。このオリーブ山からは、旧市街地と、新市街地の両方のエルサレムを眺めることができます。イエス様は、朝早い時間にオリーブ山から、エルサレム市街地を眺めてどのようなことを思われていたのでしょう。もしかしたら、これからご自分に起こる様々な苦しみを思われていたのかもしれません。
きょうのみことばは、律法学者とファリサイ派の人々が、一人の姦通の罪を犯した女性の処分によって、イエス様を陥れようとする場面です。イエス様は、朝早くオリーブ山からエルサレムの神殿の境内に入ってきました。人々は、イエス様から何か教えを聞こうとして集まってきました。イエス様は、彼らに教えるために腰を下ろされます。この腰を下ろすというのは、当時の、ラビが人々に教え始めるという動作でした。そこへ、律法学者とファリサイ派の人々は、姦通の罪を犯した女性を連れて来て、「先生、この女は姦通をしているときに捕まったのです。モーセは律法の中で、このような女は石を投げつけて殺すようにと、わたしたちに命じています。ところで、あなたはどう考えますか」と質問します。当時、ユダヤ人たちの社会では、ローマの支配下にあるために死刑を行なうことができませんでした。彼らは、もし、イエス様が彼女に対して「石を投げなさい」と言えば、ローマへの反逆としてイエス様を訴えることができました。また、「彼女を許しなさい」言えば、モーセの律法に対しての違反者としてイエス様を陥れることができたのでした。
イエス様は、彼らの罠をご存知だったでしょう。イエス様は、何も言わずに身をかがめて、地面に指で何かを書き始められました。このイエス様のお姿は、ローマの法廷の習慣に従って判決の前に判決文の覚え書きを書くことをまねられたとか、人を裁くことのむなしさや、それを拒否したいという意味などと考えられるようです。いずれにしても、イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々の方を見るわけでもなく、訴えられ、捕らえられた女性を見るわけでもなく、ただ黙って、身をかがめて地面に何かを書かれていました。
そんな、イエス様の姿に業を煮やしたファリサイ派の人々は、イエス様にしつこく問いただします。彼らは、律法の専門家であり宗教家であり、「自分たちは、この姦通の罪を犯した女性のように罪人ではない」と自負していたのでしょう。だから、彼らは、この姦通の罪を犯した女性の処分をしつこくイエス様に迫ったのでした。それだけではなく、彼らは、自分たちの正義を武器に彼女を裁き、その処分をイエス様にあおぎ、罠をかけるという恐ろしい計画を立てていたのでした。律法学者やファリサイ派の人々は、ユダヤの人々に対して神である主の教えを伝え、導くという使命を持っていたのにも関わらず、彼らは、一人の罪を犯した女性に対して、いちまつの憐れみの心を持たず、逆に彼女が犯した罪を口実にしてイエス様を陥れようとしていたのでした。
このことは、人が人を裁くという傲慢さ、怖さ、醜さが表れているのではないでしょうか。彼らは、この女性が犯した姦通の罪だけを指摘し、攻撃します。しかし、彼らは、なぜ死刑になることを知りながら、彼女が姦通の罪を犯さなければならなかったのか、生活の貧しさ、寂しさ、弱さなど様々な原因については目を向けようとしませんでした。カミュは、正義について「正義とは、正しいと思う心と、暖かい愛の心」というようなことを言っていますし、日本でも「罪を憎んで人を憎まず」という言葉もあります。みことばの中での、律法学者やファリサイ派の人々は、これらのことばと反対の行いをしていたのです。私たちも、彼らのような間違いに陥らないように気をつけなければいけません。
イエス様は、しつこく問いかける彼らに対して身を起こして、「あなたがたのうち罪を犯したことのない人が、まずこの女に石を投げなさい」。と言われ、再び身をかがめられました。イエス様のこの言葉は、私たちへの回心の呼びかけとも言えるしょう。私たちは、何かしら罪を犯しています。まったく罪を犯したことがない人は、いないと言ってもいいでしょう。そのため、彼女の罪を責めていた人は、年長者から始まって一人、また一人去っていったのでした。
イエス様は、人々が去った後も、彼女と【共に】残られ、身を起こされ彼女に尋ねられました。イエス様は、罪を犯して不安な彼女を一人にせずに、彼女と共におられたのです。このことは、私たちに対しても同じことが言えるのではないでしょうか。イエス様は、私たちが罪を犯してもいつも【共に】おられる方なのです。そして、イエス様は、彼女に「わたしもあなたを処罰すべきとはみなさない。行きなさい。そしてこれからは、もう罪を犯してはいけない」と言われました。彼女にとってこの場面は、死を覚悟し、不安を覚え、この時間をどんなに長く感じたことでしょう。彼女は、この言葉によって、心の中に空いた穴がイエス様の愛で埋まるのを感じたのではないでしょうか。
弱い私たちは、何度でも同じような罪を犯してしまいます。それでも、イエス様は、私たちが犯した罪を謙遜に認め悔い改めるとき、何度でも私たちを許してくださいます。私たちは、このみことばを通して、イエス様の罪を犯した人への憐れみ、優しさ、そして、「もう罪を犯さないように」という、お恵みもいただいていることを黙想することができるのではないでしょうか。
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