おん父のみ旨を行なう恵みという種 - これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

おん父のみ旨を行なう恵みという種

〈受難の主日〉ルカ23・1〜49


 作者は不明ですが『三本の木』という本があります。それは、山頂に大きな三本の木が植わっていました。それらの木は、一本目の木には宝箱になりたい、二本目の木には舟になりたい、三本目の木には人々が自分を見て神を仰ぐような木になりたいという将来の夢を持っていました。ある時、木こりが来て三本とも倒され、一本目の木は動物の餌を入れる箱に、二本目は湖で漁をする舟に、三本目の木は角材に製材されました。三本ともかつて思った夢など忘れた頃、一本目の動物の餌が入っていた箱は誕生したイエス様が入る箱に、二本目の舟にはイエス様と弟子たちが乗られ、三本目の材木はイエス様が担われた十字架となった、という話です。それぞれの木はそれぞれイエス様の大切な木となったのでした。

 さて、きょうのみことばは、イエス様の受難の場面です。ユダヤ人の議員たちは、訴えるためにピラトのところにイエス様を連れて行きます。彼らは、「わたくしたちは、この人がわれわれの国民を惑わし、皇帝に貢ぎを納めることを禁じ、また自分こそは王であるメシアだと言っているのを確かめました」と言います。ピラトは、彼らの訴えに対して「わたしはこの人になんの罪を認めない」と言ってイエス様の無実を彼らに伝えます。そして、イエス様がガリラヤから来たことを知って、ヘロデの所へイエス様を送りました。

 ヘロデは、ピラトからイエス様が送られて来たことを非常に喜んで、イエス様に尋ねますが何もイエス様がお答えにならなかったために、なぶりものにして再びピラトの所へ送り返します。ピラトは、送り返されて来たイエス様のことに対して、ユダヤ人たちに「……あなたたちが訴え出ているような罪は認められなかった。ヘロデも同様であったので、彼はこの人をわれわれのところに送り返して来たのである。確かに、この人は死に値するようなことは何もしていない。だから、わたしはこの人を懲らしめたうえで釈放する」と答えました。

 ピラトは、イエス様に対して何度となく【この人に何の罪を認めない】という言葉を使っています。この後も「わたしはこの人に、死に値する罪は何も認められなかった。だから、わたしは、この人を懲らしめたうえで釈放することにする」と言っています。ルカ福音のイエス様の受難の場面は、ピラトやヘロデという権力者たちがイエス様に対して【この人に何の罪を認めない】という言葉を使っているのに対して、ユダヤ人たちは、イエス様を是が非でも訴え、裁こうとしている様子を表しています。ここには、ユダヤ人たちが、自分たちの立場や面子を守るための、残酷で目を覆いたくなるような企てが表されているのではないないでしょうか。このような、慌ただしい人々の中にあって、イエス様は、一言だけピラトに対して答えただけで後は無言のままでした。

 イエス様は、ユダヤ人の議員に対して、ピラトやヘロデに対して自分を弁護するような言葉を言われませんでした。イエス様は、それらがおん父のみ旨ということをご存知だったのです。そして、イエス様が十字架上で息を引き取るまでに口を開かれたことは、イエス様のことを嘆き悲しむ女性たちに対して、また、イエス様といっしょに十字架にかけられた人への慰めの言葉だけでした。イエス様は、最後の最後まで人を慰め、癒されるお方だったのです。

 私たちは、きょうのみことばから、人の中には、人を攻撃すると時の醜さと、反対に相手を理解しながらも、周りの強さに押されてしまうという働きがあることを、見ることができるのではないでしょうか。私たちは、時と場合によってどのような立場に立たされるかわかりません。そのような時に、イエス様のお姿である【おん父のみ旨に従うため】ということができるように、祈ることができたらと思います。

 私たちは、イエス様が十字架を担われたように、自分の十字架を担ってイエス様に付いて行かなければなりません。そこで、弱い私たちを助けてくださるのが三位一体の神様と言ってもいいでしょう。私たちが、おん父のみ旨に忠実に歩いて行くときに、百人隊長が賛美したように「このかたはまことに【正しい人】であった」と言われるような人になるのではないでしょうか。