復活されたイエス様に出会うという種 - これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

復活されたイエス様に出会うという種

〈復活の主日〉ヨハネ20・1〜9


 「百聞は一見にしかず」という言葉や「腑に落ちない」という言葉があります。この二つの言葉には、共通点がないように思われます。しかし、きょうのみことばからは、この二つの言葉が同時に当てはまる箇所ではないでしょうか。

 きょうのみことばは、マグダレナのマリアがイエス様の墓に行く場面から始まります。彼女は、イエス様が七つの悪霊を追い出してくださった女性でした(ルカ1・8)。そして、イエス様がゴルゴタへ向かう時にも、聖母マリア様と共に十字架のもとにたたずみ、墓への埋葬まで共に行ったことでしょう。そして、三日前の出来事の後、安息日が明けた朝早く、まだ暗いうちから墓に行きます。彼女の気持ちは、深い悲しみに包まれながらもイエス様に会いたいという気持ちで充満していたのではないでしょうか。みことばの「週の初めの日の朝早く、まだ暗いうちに」とあります。この【暗いうちに】は、時間的な描写と共に彼女の気持ちを表しているような気がいたします。もちろん、彼女は、誰よりも早くイエス様のもとに行きたいという【愛情】の表れもあったことでしょう。そして、彼女はイエス様が埋葬されていた墓の前に着きます。

 彼女は、そこで墓から石が取りのけてあるのを見ます。このことは、彼女の悲しみをさらに深いものとしたことでしょう。彼女は、何が何だか分からないまま、シモン・ペトロとイエス様が愛されたもう一人の弟子のところへ走って行き「だれかが主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わたしたちにはわかりません」と伝えます。きょうの箇所には、書かれていませんが彼女は、再びイエス様が葬られた墓へ行っています。もしかしたら彼女は、弟子たちと一緒に走って墓へ行ったのかもしれません。

 彼女は、墓の外に立って泣いていた時に復活したイエス様と最初に出会うというお恵みをいただきます。もちろん、彼女もイエス様を園の番人だと思いますが、イエス様の「マリア」という聞き覚えのある言葉を聞いてイエス様だということに気がつきます。これは、彼女がイエス様を「多く愛した」(ルカ7・47)からいただいた恵みと言ってもいいでしょう。

 さて、墓に着いた二人の弟子は、墓の中でイエス様を包んでいた亜麻布が平らになっているところと、頭を包んでいた手拭がそのままの状態になっているところを見ます。しかし、イエス様はそこにはいませんでした。弟子たちは、イエス様がどのような死に方をし、その後復活するということを何度も語られていたことをようやく信じたのでした。まさに、「一見は百聞にしかず」という言葉ではないでしょうか。しかし、彼らは、イエス様が【復活】されたということを【信じた】としてもまだ、【腑に落ちない】ことだらけだったのでしょう。

 きょうの箇所ではありませんが、弟子たちは、「弟子たちはユダヤ人たちを恐れて、自分たちがいた場所のどの戸にも鍵をかけていた」(ヨハネ20・19)とありますように、イエス様の復活を信じていても理解できていなかったと言ってもいいでしょう。

 きょうのみことばから、私たちは、復活したイエス様と出会うためには、【どのようなことをしなければいけないのか】ということを黙想することができるのではないでしょうか。私たちは、弟子たちのように人間としてのイエス様との触れ合いはありません。しかし、私たちは、弟子たちが体験したような【復活されたイエス様】には出会うことができると言ってもいいでしょう。

 きょうのみことばの中には、【見る】という単語がよく使われています。マグダレナのマリアは「墓から石が取り除かれているのを見た」、弟子たちは「亜麻布が平らになっているのが見えた」、「墓の中に入ってよく見ると」、「もう一人の弟子も中に入り見て信じた」とあります。まず、私たちは、復活したイエス様を【見たい】と探し求めることが大切なことと言えるでしょう。そして同時に、マグダラのマリアのように、愛するイエス様にお会いしたいという気持ちも必要だと思われます。

 イエス様は、私たちが【復活】されたご自分を心と体で理解し、あらたな恵みをいただいて、歩んでゆくことをお望みになられているのではないでしょか。私たちは、もっと復活されたイエス様に出会うことができるように祈り、恵みを願い求めたいものです。