主の小羊を飼うという種 - これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

主の小羊を飼うという種

〈復活第3主日〉ヨハネ21・1〜19


 私たち日本人は欧米の人に比べて、夫婦や恋人などお互いが愛し合っていても、面と向かって「愛している」と言ったり、聞いたりするというのは、照れなどもあって難しいのではないでしょうか。むしろ、私たち日本人は、言葉で「愛している」というよりも、行動などで【愛】という表現をしているような気がいたします。

名称未設定-3.jpgガリラヤ湖 さて、きょうのみことばは、二つの部分からなっています。前半は、ガリラヤ湖に漁に出た弟子たちが、不漁のために引き返してきたところに、イエス様が彼らに、網を降ろさせて大漁になるという奇跡の物語です。後半は、イエス様が、岸に上がったペトロに、三度「わたしを愛しているか」とお尋ねになっる場面です。この二つの間には、共通点として【愛】ということが流れているように思われます。

 みことばは、ペトロと六人の弟子たちがガリラヤ湖に漁に出るところから始まります。まず、ここで弟子たちは、七人がそろっていることになるのですが、これは、7という完全を表す数字から、教会ということを意味していると言われているようです。しかし、彼らだけでは、一晩かかっても魚を捕ることができませんでした。イエス様は、岸で彼らの帰りを待ちながら、弟子たちに対して「……、何か魚はないのか」と尋ねられます。弟子たちは「ありません」と答えます。イエス様は、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れる」と言われます。これらのことは、弟子たちだけでは完全ではなく、イエス様がともにおられて初めて完全な教会となるということを表しているのではないでしょうか。教会の働きは、信者だけの働きではなく、イエス様とともに行なうことで初めて実りがあると言ってもいいのでしょう。

名称未設定-5.jpg さて、この大漁の奇跡は、以前イエス様が最初の弟子たちをお呼びになられたときに、行なわれたのと同じでした。それで、イエス様が愛しておられた弟子は、この奇跡によって岸に立っておられるお方がイエス様ということに気がつきます。そして、この弟子は、ペトロに「主だ」と伝えます。ペトロは、一刻も早くイエス様に会いたいために、仕事着の裾をからげて、湖に飛び込み岸にわたります。舟から岸までおよそ100メートルくらいだったようですが、このペトロの行為は、わざわざ衣服を着て泳がなくてもいいのではないか、と思ってしまいます。衣服をつけて泳ぐとかなり泳ぎづらく、まだ、他の弟子たちと一緒に舟で岸まで行った方が良かったのではないでしょうか。しかし、あえてペトロが衣服を着てまで先に飛び込んで行ったかというのは、ペトロのイエス様への愛の表れだったと言ってもいいでしょう。

 イエス様は、すでに弟子たちのために炭火をおこし、魚を焼かれていました。イエス様は、弟子たちが漁から帰って来るのを待っておられたのでした。彼らの帰りがいつになるのか分からないのにも関わらず、ずっと火を準備されて待っておられたのでした。これが、イエス様の弟子たちへの【愛】の姿ではないでしょうか。そして、朝食を彼らとともにされます。みことばは、「イエスは近づいて来て、パンを取り、彼らに与え、また、魚も同じようにした」とあります。これは、イエス様が、弟子たちに食物を与えるということで、私たちはイエス様によって養われているということを意味していると言ってもいいのかもしれません。イエス様は、私たちを愛され、そして、私たちとともにおられるのです。

名称未設定-4.jpgハート形の敷石 みことばは、『ペトロへの愛の確認』へと移っていきます。食事が終わると、イエス様は、ペトロに「ヨハネの子シモン、この人たち以上に、あなたはわたしを愛しているか」とお尋ねになります。ペトロは「はい、主よ、ご存知のように、わたしはあなたを愛しています」と答えます。すると、イエス様は、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われます。イエス様はこのような質問をペトロに三回お尋ねになられ、ペトロも三回同じように答えます。イエス様とペトロのこのやり取りは、イエス様の受難のときに、ペトロがイエス様を三回「知らない」と言ったため、同じようにイエス様がペトロに三回お尋ねになったと言われています。しかし、それだけの理由ではなく、イエス様の小羊を飼うということは、イエス様への【愛】がなければ行なうことができない、ということを言われているのではないでしょうか。

名称未設定-6.jpg イエス様は、私たちにも「○○さん、この人たち以上に、あなたはわたしを愛しているか」と言われています。私たちは、このイエス様の問いかけに何と答えているのでしょう。ペトロのように「はい、主よ、ご存知のように、わたしはあなたを愛しています」と答えることができるでしょうか。私たちは、自分の弱さのために罪を犯してしまいます。ときにはペトロのように自信をもって「はい、主よ、ご存知のように、わたしはあなたを愛しています」と答えることができないときもあることでしょう。しかし、ペトロも他の弟子たちもイエス様の受難の時には、ユダヤ人たちが怖くて逃げてしまっています。ペトロは、イエス様のことを三回も「知らない」と言っています。弟子たちも私たちと同じように弱い罪人なのです。ペトロは、三回目に「主よ、あなたは何でも知っています。わたしがあなたを愛していることは、知っておられるはずです」答えています。この「何でも知っている」という中には、ペトロがイエス様を愛していることも、また、イエス様を置いて逃げ出すような弱さを持っていることも全てご存知です、と言っているのでしょう。ペトロは、このように弱いわたしですが、それでもイエス様を「愛しています」と言っているのではないでしょうか。

 イエス様は、私たちの弱さも何もかもご存知なのです。それでも、イエス様は、私たちが「はい、主よ、ご存知のように、わたしはあなたを愛しています」と答えるのを待っておられるのです。そして、イエス様は、私たちのこの信仰告白を言うことによって、【小羊】を飼う力をお与えくださるのです。私たちは、いつもともにおられるイエス様の愛を感じながら、イエス様に信頼して信仰生活を送って行きたいと思います。