井手口満修道士のこれって、どんな種?
新しい掟を行なうという種
〈復活第5主日〉ヨハネ13・31〜33a、34〜35
メアリー・スティーブンソンという方が書かれた『あしあと』という本があります。それは、「一人の男性が浜辺をイエス様と二人で歩いている夢を見ます。彼らの後ろには、彼のものと、イエス様のものの二組の【あしあと】が残されていました。男性はイエス様と共に人生を歩いて行こうと決心します。
ある時、彼が人生の中で困難だったときの【あしあと】が一つだったことに気がついてイエス様に『主よ、私があなたを最も必要とした時、私を見捨てられたのですか。』と尋ねます。イエス様は、『わたしのいとしい子よ、わたしはあなたを愛している。わたしはあなたを決して見捨てはしない。あなたが試練にあって、苦しんでいたとき、その時に残されたあしあと、それは、わたしがあなたを背負って歩いた【あしあと】だったのだ。』と答えられた。」というような内容です。この中には、イエス様の私たちへの愛を本当に分かりやすく書かれているような気がします。
きょうのみことばは、イエス様が【最後の晩餐】の中で、弟子たちに「わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい。」という【新しい掟】を与える場面です。みことばは、ユダがイエス様を裏切り、過ぎ越しの食卓の場から出て行くところから始まります。イエス様は、弟子たちに「今こそ、人の子は栄光を受けた。神もまた人の子によって 栄光をお受けになった。……」と言われます。この栄光は、おん父のご計画である、【イエス様のご受難と死、そして復活】を意味していると言われています。残念ながらユダの裏切りは、イエス様とおん父が栄光をお受けになるために必要だったと言ってもいいのかもしれません。
ですが、イエス様の【ご受難と死、そして復活】は、イエス様に取っては、ゲツセマネの園で「父よ、もしできることならば、この杯を通り過ぎるようにしてください。」(マタイ26・39)とおん父に祈られるほど苦しいものでした。それでも、イエス様は、おん父への従順のためにすべてをお受けになられ、おん父のご計画を行なうことによって、おん父からの栄光をいただかれます。それと同時におん父ご自身も栄光をお受けになられたのです。これは、イエス様だけが【ご受難と死】の苦しみをお受けになったのではなく、おん父もご自分の子を十字架上で死なせる、という苦しみを味わわれたということなのです。
イエス様は、あまり弟子たちと共にいる時間がないことをご存知でした。それで、イエス様は弟子たちに【新しい掟】をお与えになります。それは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合いなさい。」というみことばでした。このみことばは、弟子たちに与えられたのではなく、私たち一人ひとりにも与えられた言葉です。イエス様は、私たちをどのように愛されているのでしょう。私たちは、イエス様の愛をどこまで意識しているのでしょう。私たちは、『あしあと』の男性のように、イエス様が私たちを背負っておられることに気がついていないかもしれません。まず、私たちは、イエス様が私たちをどのように愛されているのかを振り返ってみる【時】を持つことが大切なのかもしれません。私たちが、イエス様の愛を知ったとき、私たちは周りの人に対して愛することができるのではないでしょうか。みことばは、「互いに愛し合うならば、それによって人は皆、あなたたちがわたしの弟子であることを認めるようになる。」とあります。私たちが、イエス様の【新しい掟】を忠実に果たすとき、人々は私たちを「イエス様の弟子として認めてくれる」ことでしょう。
先日、『イエロー・ハンカチーフ』という映画を観ました。それは、高倉健が主演の『黄色いハンカチ』のアメリカ版といっても言いでしょう。その中で、事故で人を死なせ刑務所に入れられた男が、面会に来た妻に離婚届を渡す場面がありました。そのとき彼の妻は、「分かっているの。あなたは、私を愛させたのよ」と言って泣きながら面会室から出て行きました。この男の人は、彼女にこの言葉を言わせるほどの【愛】を与えていたのです。これは、映画の中のワンシーンですが、とても考えさせられる言葉です。私たちは、イエス様からいただいた【新しい掟】を実行することによって、イエス様をあかしする使命を与えられています。きょうのみことばから、改めて私たちは、イエス様から愛されていることを黙想し、さらに、【新しい掟】を実行することができるようにおん父に恵みを祈りたいものです。
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