イエス様を愛し、罪を許されるという種 - これって、どんな種?

HOME > コラム > これって、どんな種? > バックナンバー > イエス様を愛し、罪を許されるという種

井手口満修道士のこれって、どんな種?

イエス様を愛し、罪を許されるという種

〈年間第11主日〉ルカ7・36〜50


 私たちは、どうしても罪を犯してしまいます。そのような弱い私たちのために、教会は罪を犯した人に対して、裁くのではなく【ゆるしの秘跡】によって罪をイエス様の慈しみ深い愛を伝えています。ただ私たちは、どうしても【ゆるしの秘跡】を告白の場として用いてしまう傾向にあります。私も以前は、そのように思ってしました。しかし、私は、ある時【ゆるしの秘跡】を受けた時に、罪が許されただけではなく、「私を罪から守ってくださる」という体験をした時から少しずつ変わってきたように思われます。

 きょうのみことばは、イエス様がファリサイ派のシモンの家に招かれた先で、【罪深い女】の罪を許されるという場面です。イエス様は、ファリサイ派シモンに食事に招かれ食卓にお着きになります。すると、そのことを知った【罪深い女】がイエス様の足もとに近寄り、涙でイエス様の足をぬらし、自分の髪の毛でふき、足に接吻をして香油を塗ります。私たちは、このような場面を思い描く時に、いったいこの【罪深い女】は、なぜ、勝手に人の家に入って来てこのようなことをするのだろうか、と考えるのではないでしょうか。私たちには不思議に思えるこのような光景も、中近東では客がいる家に他人が入って来るというのは普通だったようです。それに、聖書の中では書かれていませんが、イエス様の噂を聞いたこの女性は、自分の罪をなんとかして許してほしいと願っていたのではないでしょうか。

 彼女がイエス様の足もとに近寄っている様子は、イエス様への尊敬と、感謝のしるしだったようです。さらに、涙でイエス様の足をぬらしたということは、イエス様への痛悔と愛の溢れた心を表しているようです。このように考えますと、この【罪深い女】は、もしかしたらどこかでイエス様の話を聞き、それによって自分の心の中に悔い改めの気持ちが芽生えたのではないでしょうか。彼女は、人々から【罪深い女】というレッテルを貼られて苦しんでいました。このことは、彼女自身の弱さなのか、または、生活のために仕方なかったのか、みことばの中には書かれていません。しかし、彼女はイエス様を知ったことで、少なくとも今の生活ではいけないということに気がついたのでしょう。それで彼女は、イエス様の足もとに近寄り、自分の涙で濡らし髪の毛で拭き、香油を塗ったのでした。

 ファリサイ派のシモンは、彼女とイエス様の様子を見て、もし、イエス様が預言者ならば、自分に触っている女性が【罪深い女】であること、また、食事の前にそのような【罪深い女】を自分に触れさせることなどしないだろうと、思っていたのでした。イエス様は、彼の考えに気付かれ、500デナリを貸した人と50デナリ貸した人の負債を許した金貸しのたとえ話をします。イエス様は、このたとえ話を、当時のファリサイ派の人たちが一般的な考えで、神に対する負債を計量的に「多い、少ない」ということで計っていたことからなされたようです。イエス様は、シモンの答えに「その判断は正しい」と言われますが、その後に、シモンと【罪深い女】の違いについて話されます。

 この律法に忠実なシモンこれまでのイエス様に対する接し方は、客に対してのごく当たり前の対応だったのです。ただ、イエス様はシモンに対して、律法の形式にとらわれた考えではなく、彼女の愛に満ちた行いの方が大切であるということを伝えたかったのではないでしょうか。イエス様は、この【罪深い女】がご自分に対して、人の目を気にすることなく行なった愛の深さによって、「彼女の多くの罪がゆるされたのは、彼女が多くの愛を示したことでわかる。」と言われます。

 私たちは、【罪深い女】のようにイエス様を愛しているでしょうか。私たちは、周りの目やプライドが邪魔をして思いどおりにイエス様を愛することを怠っている、ということはないでしょうか。または、シモンのように形にとらわれすぎて、本当に大切な思いやりや助け合いを忘れてはいないでしょうか。きょうのみことばから、今一度イエス様の愛に触れたときのこと、イエス様に許されたときのことを思い出してみたいものです。そして、私たちは、罪深いことを謙遜な心で認め、もっと素直にイエス様の足もとに近寄っていきたいものです。きっと、イエス様は、私たちの心を汲み取ってくださり、ゆるしを与えてくださることでしょう。イエス様は、私たち一人ひとりに「あなたの信仰があなたを救ったのだ。安心して行きなさい」と行ってくださいます。このことに信頼して、信仰生活をイエス様と共に歩いて行きたいものです。