イエス様に従うという種 - これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

イエス様に従うという種

〈年間第12主日〉ルカ9・18〜24


 私たちが人を好きになる時には、相手のことを良く知りたいと思うのではないでしょうか。また、だれか尊敬できる人を見いだしたとき、その人から多くのものを学び、その人に付いて行こう思うのではないでしょうか。私たちにとって最も尊敬する方、愛したい方は、イエス様と言ってもいいかもしれません。

 さて、きょうのみことばは、イエス様が独りで祈っておられるところから始まります。ルカ福音の中では、イエス様がたびたび独りで祈られる姿を描いています。このイエス様が祈られた後には、必ず、大切なことを示されることがあります。例えば、イエス様が12人の弟子をお決めになられる時(ルカ6・12)、主の変容の時(ルカ9・28)、主の祈りを教えられた時(ルカ11・1)、そして、ゲッセマネでの祈り(ルカ22・39)という場面です。今回の場合は、イエス様が誰であるかということを弟子たちに知らせること、そして、ご自分の最期についてお話になられ、さらに、ご自分に従うために必要なことを教えることと言ってもいいでしょう。

 イエス様は、祈られた後に弟子たちに「人々は、わたしを何者だと言っているか」とお尋ねになられ、次いで「では、あなたたちは、わたしを何者だと言うのか」と尋ねられます。このイエス様の質問は、弟子たちを通して私たち一人ひとりにも尋ねられているのではないでしょうか。私たちは、イエス様のことをどのように見ているのでしょうか。きっと、人によってどのように思うかは違うことでしょう。私たちは、聖書や周りの人などを介してイエス様のことを知り、イエス様に惹かれて、洗礼の恵みをいただいたことでしょう。それらは、あたかも私たちがイエス様に出会ったように思われがちですが、実は、イエス様が私たちをお選びになり、呼ばれていたのでした。

 私たちは、このイエス様の呼びかけに応えて洗礼の恵みを受けました。さらに、イエス様のことを知るように聖書を読み、秘跡を受け、祈りをします。このようにして、「私にとっての【イエス様】」を見いだしていることでしょう。まず、私たちは、「あなたたちは、わたしを何者だと言うのか」ということを深めることがイエス様に従う一歩ではないでしょうか。パウロは、手紙の中で「生きているのは、もはやわたしではなく、キリストこそわたしのうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2・20)と書いているように、自分とイエス様がもう一体であると言っています。私たちも、今一度自分にとってのイエス様を見つけてみるもの一つの黙想になるかもしれません。

 次に、イエス様は、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老や、大祭司や、律法学者たちから排斥され、殺され、そして、三日目に復活する」とご自分の死について弟子たちに伝えられます。たった今、ペトロがイエス様のことを「神のメシア」と答えたところに、イエス様は、ご自分の死について語られたのです。弟子たちは、自分たちが待ち続けた「メシア」が目の前にいるということに喜んだことでしょう。しかし、その直後には、自分たちの「メシア」であるイエス様が、どのように死ぬかということを知らされたのです。

 そんな弟子たちに、イエス様は、「わたしの後に従いたい者は、おのれを捨て、日々、自分の十字架をになって、わたしに従いなさい。」と言われます。まだ弟子たちはこのとき、イエス様の言葉の意味が分からなかったのではないでしょか。彼らがこの意味を理解するのは、イエス様が受難と復活の後に、聖霊が彼らに注がれたときからと言ってもいいでしょう。私たちは、イエス様に従い、倣おうとして生活をしています。それは、私たちがイエス様のことを愛しているからではないでしょうか。私たちは、イエス様に従う中でいくつもの困難に出会い、悩み、苦しむことがあります。だれも、問題や悩みを好きな人はいません。しかし、それらがイエス様の言われる「日々、自分の十字架」だとしたら、やはり担わなければならないのではないでしょうか。

 ある方から、「イエス様は、その人が耐えられない十字架は与えられない」ということを聞いたことがあります。イエス様は、まず、私たちが自分の十字架を担うために、【おのれを捨て】なければいけないと教えてくださっています。それは、自分をかばいながら十字架を担うことができない、ということだと思います。私たちにとって、【おのれを捨てる】ことは、困難ですし、勇気がいることかもしれません。そのような時、聖霊の助けを願ってみてはいかがでしょうか。きっと、自分の十字架を担って行く力を得られると思います。