イエス様から遣わされるという種 - これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

イエス様から遣わされるという種

〈年間第14主日〉ルカ10・1〜12、17〜20


 巣立ちというものがあります。文字通り、自立して次の段階に進んでいくことです。親鳥は、ヒナに餌を与え育て、さらに、巣立ちができる頃になると、飛び方を教えます。ヒナたちも親鳥を見本として、飛ぶ練習をします。私たちも、これと似たことがあるのではないでしょうか。例えば、芸術家などの師匠が自分の弟子の上達を見て、独立をさせて行くようなこと、また、身近なところでは、親子の関係で、子どもが成人して結婚しいくようなこともあるでしょう。この巣立ちは、送る方もまた巣立って行く方もそれぞれ、不安と希望、勇気、信頼などの気持ちが混ざっているのではないでしょうか。

 さて、きょうのみことばは、イエス様が72人の弟子たちを、ご自分がこれから行こうとしている町や村に2人ずつ、先にお遣わしになられる場面です。イエス様は、弟子たちを派遣するお気持ちを「小羊をおおかみの中に入れるようなものである」と言われます。これは、イエス様の弟子たちは、おおかみからの攻撃されるように、いくつかの迫害に遭うということを言われているようです。このことは、私たちの宣教ということでも同じことが言えるのではないでしょうか。現代では、目に見える迫害はありませんが、人々の無理解や無関心、自己中心的な生き方や価値観の違い、権利や金銭への欲などさまざま悪への傾きがあります。そのような中で、私たちが宣教するということは、おおかみに入れられるようなものと言ってもいいでしょう。

 さて、イエス様が弟子たちを派遣する目的の中で大切なことは、「病人をいやし、また人々に『神の国は近づいた』と言いなさい」ということと言ってもいいでしょう。当時の病人は、自分の罪や先祖の罪が原因と言われ、罪からの救いを望んでいました。それで、イエス様は、弟子たちに病気に苦しむ人に対して、罪からの解放を勧めておられるのです。そして、本当の平安な状態である『神の国』が『近づいた』と言いなさい、と勧められておられます。パウロ6世教皇は、『福音宣教』の中で「自己において信仰に関して経験したことを他人に伝達すること以外に、どんな福音の道が存在しましょうか。」と述べられています。私たちは、洗礼の恵みを受けて、イエス様の弟子として社会の中に派遣されています。イエス様は、私たち一人ひとりに「病人をいやし、また人々に『神の国は近づいた』と言いなさい」と勧めておられるのではないでしょうか。

 このみことばの中でイエス様は、「『神の国は近づいた』と【言いなさい】」と言われています。弟子たちが宣教する中で大切なことは、福音を宣べ伝ることなのです。パウロは、手紙の中で「信じたことがないかたを、どうして呼び求めることができるでしょうか。聞いたことのないかたを、どうして信じることができるでしょうか。宣べ伝る者がなければ、どうして聞くことができるでしょうか。遣わされなければ、どうして宣べ伝ることができるでしょうか。……信仰は聞くことからはじまります」(ローマ10・14〜17)と述べています。私たちは、生活の中で関わる人たちに【聞いて】いただくために、まずは、【言う】ことが大切なことなのではないでしょうか。

 私たちの福音宣教の結果は、喜びや勇気、希望や互いの信頼を頂くことがあります。また、逆に失敗の悔しさや、辛さ、怒りを伴うこともあるかも知れません。そのようなとき、忘れては行けないことがあります。それは、私たちがイエス様から派遣されたということです。みことばは、「ご自分が行こうとしているすべての町や村に、2人ずつ、【先に】お遣わしになった」とあります。このことは、私たちの後ろには、イエス様がおられるということなのです。イエス様は、いつも私たちの後からついて来られているのです。私たちの宣教が成功したときは、私たちと一緒に喜ばれ、失敗したときは、私たちと一緒に泣かれ、悔しがられておられます。

 私たちは、どうしても「私がなんとかしないと、私がこの状況を変えないと」と【私】に力を入れてしまう傾向があります。このようなとき、【私】に力を入れるのではなく、「【イエス様】がなんとかしてくださる」というように変えてみてはいかがでしょうか。宣教から帰って来た弟子たちは、「……、お名前を使って命ずると」と言っています。私たちは、弟子たちに倣って自分ではなくイエス様の【お名前】を使ってみことばを伝えたいものです。そのようなとき、きっとイエス様は、私たちの名前を「天に書き記して」くださることでしょう。