隣人愛という種 - これって、どんな種?

井手口満修道士のこれって、どんな種?

隣人愛という種

〈年間第15主日〉ルカ10・25〜37


 最近は、人と人とのコミュニケーションが困難になってきているようです。以前のように隣近所の付き合いということも少なくなってきたのではないでしょうか。人に対しての無関心さ、人間関係の煩わしさや、インターネットなどの便利さから、外に出なくても日常生活で必要なものを揃えることができます。このようなことから、ますます人との繋がりを持つ必要がなくなってきています。【出会い】という言葉は、【出て】【会う】と書きます。まず、自分の中から外に出て行かなければ【出会い】は生まれません。しかし、そのためには、時間や労力、自分から出るという勇気などが必要になってきます。人と人との【出会い】には、愛の行ないが必要なのではないでしょうか。そう考えると【出会い】は、【出愛】と言えるかもしれません。

 さて、きょうのみことばは、律法の専門家とイエス様との対話から有名な『良きサマリア人』のたとえ話の場面です。律法の専門家は、イエス様に「永遠のいのちをいただくためには、何をしなければなりませんか」と質問します。イエス様は、彼に「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読んでいるのか」と答えられます。その答えとして、律法の専門家は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの主を愛せよ。また、隣人を自分のように愛せよ』とあります」と答えました。この箇所は、ユダヤ人が子どものときから親しんできた申命記の一部分です。イエス様は、彼の答えを聞いて、「……。それを【実行】しなさい。」と言われます。

 この律法の専門家が答えた「隣人を自分のように愛せよ」という、【隣人愛】の実践は、それを行なう人にとって、かなりの時間や労力、犠牲や煩わしさを伴います。次に書かれてある『良きサマリア人』のたとえ話に出てくる祭司やレビびとは、宗教の専門家であり、人を導く人たちでした。当然彼らは、先ほどの申命記の箇所を知っていました。この申命記のすぐ後には、「今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩いているときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。」(申命記6・6?9)と書かれてあるくらいに大切な言葉だったのです。しかし、彼らは、盗賊に襲われ重傷を負って倒れている人を見て、助けるのではなく【道の向こう側】を通って行ってしまいます。彼らは、さまざまな煩わしさや犠牲から、【隣人愛】の実践を放棄してしまったのでした。

 しかし、律法とは無関係のサマリア人は、倒れている人の側に来て、その人を【見て哀れに思い、近寄って】、傷口に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして介抱します。さらに、ろばに乗せて宿屋に連れて行って、「この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰って来たときに支払います。」と言っています。このサマリア人の姿は、イエス様のお姿でした。イエス様は、困っている人、苦しんでいる人を見て、決して放っておくことがおできにならないお方です。みことばの中の【哀れに思う】は、同情するという言葉でだけではなく、心の底から哀れに思うこと、【断腸の思い】と言う表現と言ってもいいでしょう。イエス様は、サマリア人がこの強盗に遭い瀕死の状態にある人に対して行なったような介抱を、私たち一人ひとりに対して行なわれるのです。

 サマリア人は、見ず知らずの人に対して、時間、労力、お金、そして、自分が強盗から襲われるかも知れないという危険さえも顧みずに【隣人愛】の実践を行なったのでした。彼の行ないは、パウロが言うように「そうしないではいられないからです。」(1コリント9・16)という言葉が当てはまるのではないでしょうか。

 最後にイエス様は、律法の専門家に「では、あなたも行って、同じようにしなさい」と言われます。これは、私たち一人ひとりにくださったイエス様からのメセージではないでしょうか。イエス様は、サマリア人が傷ついた人を介抱したような哀れみを、私たちも持つようにと言っておられるのです。私たちは、他の人に【隣人愛】の実践をする時に、多少の犠牲を伴うことでしょう。しかし、それらの行いは、イエス様が模範として私たちに示されたことです。私たちは、イエス様に倣うものとして、【隣人愛】の実践を行なっていくとともに、私たちがイエス様と共に【隣人愛】の実践をすることができますように、力を祈り願いたいと思います。