イエス様を待つという種 - これって、どんな種?

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井手口満修道士のこれって、どんな種?

イエス様を待つという種

待降節第1主日(マタイ24・37〜44)


聖地巡礼0062.jpg 私は、以前ある人から「私は、うまく行っているとき、幸せな時は好きではありません。それは、いつ落ち込む時が来るか分からないからです。むしろ、落ち込んでいる時の方が、いつかは昇るという希望をもつことができます」と言われたことがあります。今、典礼では待降節に入っています。この待降節には、二つの【待つ】ということを意味していると言われています。一つは、イエス・キリストの誕生を【待つ】ということと、イエス・キリストの再臨を【待つ】ということです。いつ来られるか分からない時を【待つ】というのには、かなりの忍耐が必要です。ことわざにも「備えあれば、憂いなし」という言葉があります。これは、「いつ何が起こっても良いように、常に準備をしているように。」という意味です。また、似たような言葉で「災いは忘れたときにやって来る」という言葉もあります。私たちは、待降節の間、イエス様がいつ来られても良いように、準備をしておく必要があるようです。

 さて、きょうのみことばの前半は、この「災いは忘れたときにやって来る」というような内容と言ってもいいかもしれません。ただし、イエス様を信じている人にとっては、幸いの時となるでしょう。みことばは、【ノア】の話を例に用いて、人の子の来臨がどのようなものなのかを伝えています。おん父は、人々の堕落した生活を滅ぼし、ノアの家族だけを救うために箱船を作らせて、洪水に備えさせます。その間、他の人々は、普段通りの生活を送っていました。人々にとって毎日を、普段通りの生活というのは、自分たちの楽しみだけを求め、神を無視した生活と言ってもいいでしょう。しかし、ノアの箱船が完成して全てが整ったときに、おん父は、雨を降らせて洪水を起こして、人々をすべて滅ぼしてしまいます。イエス様は、「人の子の再臨は、突然やって来る」と言われています。

聖地巡礼0060.jpgイスラエルやエジプトの砂漠地帯には、ワジという涸れた川があります。ここは、乾季のときには、人が行き来きしても大丈夫ですが、雨期になる地下にしみ込んだ水が突然流れて来て危険な場所です。今でも、多くの事故や災害となっているところです。 さらに「そのとき、二人の男が畑にいると、一人は連れて行かれ、一人は残される。二人の女がうすをひいていると、一人は連れて行かれ、一人は残されるであろう」と言われます。この二人の人の違いはどこにあるのでしょうか。みことばには書いてありませんが、イエス様を信じているか、信じていないか。イエス様を愛しているか、愛していないか。という違いではないでしょうか。パウロは「……闇の業を捨て、光の武具を身につけましょう。……日中歩くように、慎み深く生活しましょう。主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ13・12〜14)と言っています。パウロは、私たちがイエス・キリストを身にまとっていることで、イエス様が来られたときに、自分と同じ格好をしている人を連れて行かれるということを言っているのではないでしょうか。

 次にイエス様は、「目を覚ましていなさい。……家の主人は、盗人が夜のいつごろ来るかを知っているなら、目を覚ましていて、家に忍び込ませはしないであろう」と言われています。これは、「備えあれば、憂いなし」という言葉を表しているような気がいたします。パウロは、「……、他の人々のように眠ってしまわず、目を覚まし、酔うことなく慎んでいましょう。眠るのは夜であり、酔うのも夜です。しかし、わたしたちがいるのは昼間なのですから、信仰と愛のよろいを着け、救いの希望をというかぶとをかぶっていましょう。」(1テサロニケ5・6〜8)と言っています。ここに、私たちが【目を覚ます】ということのヒントがあるのではないでしょうか。私たちが、「信仰と愛のよろいを着け、救いの希望をというかぶとをかぶって」いるとき、目を覚ましてイエス様を待つことができるのだと思います。

 私たちは、イエス様がおいでになることを遠い感じで待っています。教会は、初代教会から今に至るまでイエス様の来臨を待っています。このように考えますと、ますますイエス様が来られる時を【待つ】ということに気が遠くなってしまいます。しかし、イエス様を【待つ】ということは、何も未来のことではないような気がいたします。イエス様は、パウロの手紙を通して私たちに「信仰、希望、そして愛」の大切さを教えておられます。私たちが日々の生活の中で、この三つのことばを意識して過ごすことは、【イエス様を身にまとう】ことですし、【目をさましている】ことにもなると言ってもいいでしょう。私たちは、よりよい心でイエス様を迎えることができるようにおん父に祈り求めて【待降節】を過ごしていきたいものです。