よもやまメール箱

ひたすらPUSH!

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 ルカ福音書10章1節から9節に、イエスが弟子たちを宣教に派遣される記事があります。その冒頭に、「主はほかに72人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」とあります。これまで何となく読み過ごしていた個所でしたが、最近、この聖書の記事が自分にとても身近に感じられるようになりました。イエス様が72人を任命して、ご自分がこれから行こうとしておられたすべての町や村に二人ずつ「先に」遣わされたということは、その後でイエス様は同じ所にもう一度行かれたということです。聖書には書かれてありませんが、私はそこに、「大事なことは私が後でやるから、何も心配することはない。先に行って準備しておきなさい」という、弟子たちに対するイエス様の優しさが隠されているような気がしたのです。気負って、頑張って、自分で何でもしなければ、と思わなくてもいいということなのです。だから、「財布も、袋も、履き物も持っていく必要はない」と言われたのではないかと思ったのです。

 もしイエス様が次のように言われたとしたらどうでしょうか。“私は二人ずつあなたたちを遣わす。この組はこちらの町、もう一つの組はあちらの村に行きなさい。私は別の所に行く。あなたたちは私と同じように仕事をしてきなさい。だから、財布も、袋も、履物も持って行きなさい。頑張って!”と。弟子たちは “できません”と言ったかもしれないし、本当に狼の群の中に送り込まれる羊のような思いになったかもしれません。

 またイエス様は、“途中で挨拶をしなくてもよい。行ったところで食べ物を出されたら食べ、そこに泊まりなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だから” “家から家へ渡り歩いてはいけない。ただ行ったところで『神の国は近づいた』と言いなさい”と言われました。それは弟子たちにとって、ちょっと慣れないことだったかもしれませんが、自分たちで何か実績を残す義務も、失敗を恐れるほどの冒険をする必要も、人に好かれようとする余計な心配もありませんでした。

 私は、福音書をこのように読んだとき、「福音宣教って楽だなあ」と思いました。福音宣教というと、何か特別な活動をしなければならない、何か残さなければならない、人に認めてもらいたい、などと考えがちですが、イエスはそのように言っていないのです。自分のことが中心になってはいないのです。

 私は、最近このように考えるようになって、ストレスがだいぶ減りました。取り越し苦労をしなくなりました。以前は、できることなら避けようとしていたことも、今では、「大事なことは私が後でやるから、あなたは先に行って準備していなさい」とのイエスの思いが、自分自身から余分なものを取り去って、私を前に進ませる力の元となっているような気がします。

 こんなことを考えているとき、面白い話を読みました。

 ある夜、一人の男が小さな小屋で眠っていた時、突然その部屋が明るくなってイエスが現れ、彼に「お前に一つの仕事を与えよう」と大きな岩をお見せになり、それを力いっぱい押す(push)ように言われました。男は、長い間、来る日も来る日も言われた通りに、肩をごつごつした硬い岩に当て、力の限りその岩をpushしました。しかし彼は毎夜、その日の努力が徒労に帰したことに空しさを覚えながら、疲れ果てて小屋に戻るのでした。

 そんなある日、悪魔はこの男が失望し始めてきたのを見て、その心の弱みにつけ込んでささやき掛けました。「お前さんはこの岩を毎日力いっぱい押しまくったけど、びくともしないじゃないか。いっそのこと、岩の上で死んじまったらどうだい。どうせこの岩は動きっこないんだから」と。男は、この仕事が不可能で、自分は失敗者だと思い始めていたのでした。彼はますます自分への不信と落胆の思いで、「死んじまえ」と自分に言いました。努力もいらないし、時間もかからない。それで楽になれる。

 彼はそれを実行する前に、その苦しさを祈りにしてイエスに向けました。

 「イエス様、私は長い間あなたが命じられたことに、懸命に全力を傾けました。しかし今に至るまで、私はこの岩を「びくり」ともさせることができません。何がいけなかったのでしょうか?」

 イエスは優しくこう答えました。

 「友よ、私は『お前の仕事はこの岩を力の限りpushすることだ』と命じた。お前は私の言葉を受け入れ、命じられた通りにやった。しかし私はお前に一度でも『この岩を動かせ』と言ったかな? そうではない。お前の仕事はpushすることだと言った。さて今、お前は力を使い果たし、疲労困憊して失敗したと思い込み、私のところへやって来た。しかしそうだろうか。自分をよく見てみろ。腕は強くなった。筋肉は盛り上がり、背中はたくましく光っている。お前の両腕はどんな押しにも耐えるほど堅くなり、両脚はどっしりとしている。その上、成長し、技も増した。しかし、岩が動かなかったのはお前の責任ではない。岩を押し、信仰の試練を受け、私を信じたお前の気持ちに応えよう。お前は良くやった。友よ、この岩は私が動かそう!」

 神は、私たちが従順であり、信仰を持つことをお望みですが、私たちは神のみことばを自分の思いで理解しようとします。主が言われるように、私たちは山を動かすほどの信仰を持っていなければなりませんが、それと同時に、実際に山を動かしてくださるのは神であることを認識しなければなりません。物事がうまくいかないと思うときに、力いっぱいpush。学校の勉強がうまくいかないと思うときに、ひたすらpush。仕事に耐えられそうにないと思ったら、もっと push。お金がないのに借金の返済期限が近づいてきたら、一生懸命push。周りの人が自分を理解してくれていないと感じたら、熱心にpush。人が自分の思う通りに動かないと思ったら、ただpush。

 「Push」とは、Pray Until Something Happens! すなわち、「何かが起きるまで(絶えず)祈りなさい!」という意味です。結果は神様が備えてくださるのです。

 「大事なことは私が後でやるから、あなたたちは準備をなさい」

 福音書にはこれと同じようなもう一つのみことばがあります。ヨハネ6章1節から15節の、イエス様が5千人以上の群集のためにパンを増やされた話で、「フィリポに、『この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えばよいだろうか』と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである」という個所です。5つのパンと2匹の魚ではどうしようもない、と言う弟子たちに、イエス様は「人々を座らせなさい」とだけ言われます。5千人以上の人たちを組にして座らせるのも簡単な仕事ではありませんが、これは弟子たちにもできる仕事です。そしてイエス様は、そこにあったわずかなパンと魚を取って感謝を捧げ、人々に分け与えられたのです。ここにも、「大事なことは私がやります。あなたたちは準備をしなさい」というイエス様の思いが隠されています。

 私もイエス様の呼び掛けに、「無理です!」と反応することがあります。大きな課題や嫌なテーマが提示され、「やりたくない」と初めから手を着けないこともあります。イエス様はそのような私を見て「不信仰者よ」と言われるのではなく、私にもできること、「人々を座らせる」といったたぐいのこと、その気になりさえすればできることを指示してくださっています。でもたいていは、自分のそのときの気分次第で、やるかやらないかを決めているんですね。課題やテーマが主からの「呼び掛け」であるという思いに至れば、「大事なことは私がする」という声も同時に聞こえてくると思うのですが、どうも難しい。「友よ、この岩は、私が動かそう」と主は言われる。岩を動かしてくださるのは神様であることを忘れないようにしたいと思っています。

 イエス様のご復活の朝、婦人たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」(マルコ16・3)と話し合いながら墓に向かいましたが、着いてみたらすでに石は転がしてあったばかりでなく、新しい喜びのメッセ−ジをもらって弟子たちのところに帰りました。私も「どうやってあの石を転がそうか」考えながら、暗い顔つきで仕事に出掛けることがあります。その石を動かすのは自分ではなく神様であることを思い起こすことができるなら、気持ちは全然違ったものになると思うんです。結果が何であるか取り越し苦労をしないで、5千人にパンを与える前にイエス様がフィリポに質問されたように、私たちにもpushするべき石をイエス様が提示しておられることに気を付けながら「福音宣教」をすれば疲れずにいられるなあ、と考えたりしているこのごろです。