よもやまメール箱

一期一会

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 涙を流された聖母マリア様のご像が安置されている、秋田の「聖体奉仕会」の修道院に行ったのは、昨年の9月、コスモスの花がきれいに咲いている頃でした。最近新築された聖堂は、一見神社風な造りで、カトリック信者にとっては、ちょっと違和感を覚えるようなたたずまいでしたが、聖堂の中に一歩足を踏み入れると、そこは静寂な祈りの場所で、暖かい「主のふところ」という雰囲気に満たされ、聖堂の横に設けられた一室で聖母マリアの木彫りのご像が、秋の陽射しの中で静かにほほ笑んでいらっしゃいました。以前に一度だけ友人に案内されて、ほんの数十分立ち寄ったことがありましたが、今回の訪問の目的は1泊2日の黙想会でした。

 「信じる者になりなさい」というのが黙想会のテーマでした。復活なさったイエス様がトマスに言われたお言葉です。聖書の幾つかの個所を引用しながらテーマを深め、皆さんと一緒に秋のひとときを過ごしました。

 黙想会のプログラムに「個人面談」という時間が設けられていました。実を言うと、私はこの個人面談というものがあまり得意ではありません。自分のことも持て余し気味なのに、他人の人生(?)相談なんて……という思いがあるのでしょうか。面談の希望者がいなければいいのになあ、なんてことを考えていました。ところが、いらっしゃった。しかもお二人一緒に来られたのです。(いったい何の相談だろう?)そんな内心の不安な思いはおくびにも出さないで、「何でしょう?」とにこやかにお尋ねしました。

 「神父様は、メジュゴリエに巡礼にいらしたそうですね?」

 「はぁ、去年の夏に一度行きました」

 「私たちも行きたいのですけれど、機会がなくて。ぜひその時のことを話してください」

 「(なんだ、そんなことか…)いいですよ!」

 メジュゴリエはボスニア・ヘルツェゴビナという国の小さな村です。私はずっと以前からこの巡礼地についていろいろな情報を得ていたので、ぜひ自分で確かめたいと思っていたのですが、一昨年の初めごろ、同行司祭としてのお誘いを受け、良い機会を得たと喜んで、20人ばかりの人たちと約一週間の予定で出掛けました。

medugorje.jpgメジュゴリエの聖母マリア メジュゴリエという巡礼地は、1981年6月24日に、聖母マリア様が6人の少年少女にお現れになったという所で、毎年多くの人がそこを訪れているそうです。私たちが行った時は、たまたま巡礼者たちによる祈りと礼拝の「サマー・フェスティバル」が行われていて、一万人近い大勢の老若男女の信徒がヨーロッパ各地から集まっていました。私たちの巡礼はメジュゴリエだけが目的でしたから、そこに5日間留まり、毎日あちらこちらを巡礼したり、フェスティバルに参加して外国の人たちと祈りや黙想をしていました。

 そんな盛りだくさんの巡礼でしたが、いきなり、「メジュゴリエの話をしてください」と言われても、短い時間で何を話せばよいのかと考えているうちに、(そうだ、あんなことがあった!)と思い出したことがあって、小さな体験をお話することにしました。

 5日間の滞在中、大勢の外国人たちとロザリオの祈りを唱え、ご聖体を礼拝し、ミサを捧げていたのですが、だれからともなく、「私たちだけで日本語のミサを捧げたい」という声が上がり、小さなチャペルを予約して、大きな声で典礼聖歌を歌い、祈りを捧げることができました。みんな満足でした。私も務めを果たしてホッとし、みんなが待っている所へ行こうとチャペルを出たその時、私の前にドイツからの巡礼者の一行5、6人が来て、その中の一人の年配の男性が英語で、「今のあなたがたのミサは素晴らしかった。ほら、見てご覧!」と言って、撮ったばかりの私たちのミサのビデオを見せました。何のことだろうと不思議に思いながらそのカメラに目をやっていると、今度はその方の奥様らしい女性が、「キリストが現存してましたよ!」と言ったのです。小さなビデオカメラで再生されるミサの場面を一瞥しても、特別なものは何も見えませんでしたし、「キリストが現存…」と言われても、そんなこと当たり前だし、何だったのだろうと思いながら仲間たちのところに行き、「ドイツの巡礼者からこんなこと言われた」とみんなに報告したのですが、「あ、そう」ぐらいの反応しかありませんでした.

 翌日、ある教会を訪問して主任司祭のお話を伺ったのですが、その時、私たちと一緒にイタリア人の一家族が聖堂の中でその話を聞いていました。一時間近くたって司祭の話と祈りが終わって外に出ると、年配のイタリア人の男性が、前日のドイツ人と同じことを私に近寄ってきて言いました。「昨日のあなたがたのミサはとても素晴らしかった」と。二日続けて同じことをドイツとイタリアの人から言われ、日本に帰った後でもそのことを時々思い出しては、外国人を意識して特別に準備したわけではなく、ただ自分たちの世界に浸って捧げていたようなミサのことで、「いったい彼らは何を見て素晴らしいと感じたのだろう」と思い巡らしていました。

 と、メジュゴリエの話を求めたお二人にここまで話して、「あれはメジュゴリエのマリア様のメッセージだったと思います」と言ったのです。言ってしまってから、(あ、そうだったのか、われわれが何の気なし(?)に捧げていたあのミサを見て、日本語の分からない外国人たちが「素晴らしかった」とか「キリストが現存していた」と言ったのは、マリア様が彼らを通して言われたメッセージだったのだ!)という思いに至ってびっくりし、思わず絶句しそうになったのですが、ごくさりげなく、「こんなところでよろしいでしょうか」と話を終わりました。自分勝手な思い入れかもしれませんが、本当は心の中では、マリア様への信心を大切にして日々ご聖体に奉仕なさる「聖体奉仕会」の秋田の巡礼地で、1年前にメジュゴリエというマリア様ゆかりの巡礼地での「ミサとご聖体を大切に!」というメッセージを分からせていただき、「信じる者になりなさい」という黙想会のテーマは、自分のためだったのだと一人で納得していました。

 でもその本当の意味が分かったように感じたのは、もっと後になってからです。外国で、また国内で、ミサの中で体験した不愉快な出来事でつまずきそうになったことがありましたが、そのたびに、「それでもキリストは現存しておられます!」というあの言葉が脳裏によみがえってきたのです。

 キリストの祭壇を囲むミサの中で、集中力を欠いた自分自身のマンネリ化した態度や、ほかの司祭や信徒たちの、あまりにもぞんざいで人間的な仕草に、しばしば「キリストの現存」が見えなくなるときがありました。そんな私にマリア様は、「人間が繰り広げるドラマのように見えるミサであっても、キリストが現存しておられることを忘れてはなりません」とおっしゃってくださったのだ、と気付いた時、私の心に「一期一会」という日本語がよみがえりました。「(茶会の心得から)生涯にただ一度まみえること。一生に一度限りであること」と『広辞苑』にあるその意味が、毎日捧げているミサでのキリストとの出会いの場に最も必要なものではないかと思ったのです。メジュゴリエの出来事は、今捧げているこのミサを30年間捧げてきた昨日までのミサの繰り返し、またあしたも捧げるであろうミサの一つとするのではなく、「主よ、きょう初めてお目にかかります。ありがとうございます。これが最後のミサかもしれません。ありがとうございました」という「一期一会」の気持ちで大切にしなさい、というマリア様からのメッセージだったと心から信じております。