「そんなばかな」話
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
テレビでスポーツ番組を観戦していると、よく「攻撃は最大の防御」ということを解説者の方がおっしゃいます。例えば、野球の試合での息詰まるような投手戦で、相手チームをずっとゼロに抑えていたピッチャーが、味方が一点か二点取ってくれた次の回に、突然崩れて何点も取られてしまうということは、そんなに珍しいことでないようです。(この一点を守らなければ)という思いが緊張感を生むのでしょう。それまでの積極的なピッチングが消極的になって、球威が落ちたり、コントロールが乱れたりするのではないかと思います。何場所も良い成績をあげて大関や横綱を狙う場所を迎えた力士が、それまでとは考えられないような負け方で失敗するというのも、(負けられない)という緊張感が、攻める相撲を忘れさせる結果になったのでしょうね。
攻撃、防御という言葉は、戦争、スポーツ、ゲームなど、いろいろな意味での戦いの用語ですが、別の言葉、例えば「攻めの姿勢」「守りの姿勢」に置き換えてみると、いろいろなことに応用できるような気がします。
イエス様が派遣すると約束なさった聖霊を受けた使徒たちは、それまでのオドオドした態度から一変して、大胆に宣教を始めるようになります。聖霊降臨の時が教会の誕生と言われる所以です。聖霊の導きと照らしによって、神の言葉はますます広まり、教会は大いに発展して行くのですが、やがて次第に組織化され、「聖霊に頼ってばかりいてはだめなんだ」ということで、みんなで明日のことを相談して計算するようになり、そして教会の歩みは止まりました。修道会も同じです。これはある集いで教会の歴史について述べた一人の司祭から聞いた話です。「教会、修道会の歩みは止まった」という発言にはびっくりしましたが、教会、修道会の現実を見てみると、的を射た考えかもしれません。聖霊だけに頼って大胆に宣教していた「攻めの姿勢」から、組織に対する「守りの姿勢」に教会も修道会も変身して行ったということでしょう。忘れられない言葉です。
「うちの教会に面白い信者がいましてね」と知り合いの教区司祭が、こんな話をしてくださいました。その信者さんというのは、年輩の男性で、毎週土曜日に教会で行われる聖書の分かち合いの集いに、毎回熱心に参加なさっているそうですが、聖書を読んで、事ある度ごとに、大声で「そんなばかな!」とおっしゃるというのです。その話を聞いて、私は思わず大笑いしてしまいましたが、実に正直な人だなあ、と感心(?)してしまいました。聖書にあるのは神の言葉ですが、日常的に使っている自分たちの言葉でそれを読み、日常的、常識的なレベルでそれを理解しようとするかぎり、なるほどイエス様は、「そんなばかな」ことばかりなさったり、おっしゃったりしておられるわけです。考えてみれば修道会の創立当初に、創立者たちはそのやっていることを、周囲からは「そんなばかな」という目で見られていたのではないでしょうか。それは聖霊に対する絶大なる信頼という裏付けがあっての「攻めの姿勢」だったわけですね。ところが人間が知恵を出し合って考えているうちに、賢い人、知恵のある人たちは、「そんなばかな」ことをしなくなり、あっちもこっちも、みんな「守りの態勢」に入ってしまったのかなあという気がします。
と、能天気に教会論、修道会論をぶっているのは気が楽なのですが、はたして自分の生き方は「攻めの姿勢」か「守りの姿勢」かということを考えたら、どうも怪しくなってきます。福音的価値観における「そんなばかな」こと、損すること、恥をかくこと、笑われること、疲れることや気に入らないことは、決してしたくないのですから、もはや自分に対する「守りの態勢」に入っているということになるのでしょうなあ。
私の両親にとって初孫、私にとっては初めての姪である純子がまだ二、三歳のころのことです。ある日、お父さんとお母さんに連れられておじいちゃんの家に遊びにきた純子は、おばあちゃんにもらったキャンディーが幾つか入った袋を大事そうに持っていました。みんながテーブルについて歓談していた時、お母さんが純子に言いました。「おじいちゃんに一つあげなさい」。純子は袋に手を入れてキャンディーを一つ取り出し、おじいちゃんのところに持って行って「はい」と手渡しました。「おばあちゃんには?」と言われて、今度はおばあちゃんに一つ。「ありがとう」と言われるのが嬉しいのか、純子はニコニコしながら、お母さんに言われるままに、おじちゃん、あばちゃん、お父さんに、大事なキャンディーを次々と手渡して行きます。大人たちはしっかり見ていました。キャンディーがとうとう最後の一個になってしまったのを。そしていじわるなお母さんは、その最後の一個を、「お母さんにもちょうだい」と言って、すべて略奪してしまってから、言いました。「あとは全部純子のものよ」と。そして純子はそれまでと同じように、嬉しそうに自分のを取り出そうとして袋に手を入れました。もはや一個も残っていないと気付いた時の純子の顔を、今でもまだ覚えています。口を半分、ポカンと開けて、一瞬、動作が止まり、「エッ、そんなばかな!」と言わんばかりの表情でした。大人たちは爆笑しましたが、純子がご機嫌を損ねないうちにと、大急ぎで「はーい、これは純子のもの!」と言いながら全部純子の袋に返してやりました。「よかったね!」とみんなに言われて、純子の顔はそれはそれは嬉しそうでした。キャンディーがたくさんあったときも、最後に「そんなばかな!」って顔をした時も、純子は一度も袋の中を見ようとしませんでした。
「そんなばかな」話って、こんなものでよろしいのではないでしょうか。神様の呼び掛けに「はい、はい」と応えていたら、いつか「そんなばかな!」と叫ぶはめに陥るかもしれません。でも神様はきっと十分すぎるほどに、その労をねぎらってくださいます。これが福音的価値観における「攻めの姿勢」です。だって聖書にそう書いてありますよ。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(ルカ9・24)と。あの信者さんはここでも言ったのかな?
「そんなばかな!」
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