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体質改善に万歩計!

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 「祈りが聞き入れられる」なんて、信じているようで、どこか「それはだれか他の人のことで、とりあえず、祈りはするけれど、これが聞き入れられるということは、まず無理だろうな」というような思いで、日頃からマンネリっぽい祈りをしておりましたが、ある時、福音書を読んでいて、「えっ」と気付かせられました。それはマルコ福音書8章に出てくる「ベトサイダで盲人をいやす」話です。

 「人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、『何か見えるか』とお尋ねになった。すると、盲人は見えるようになって、言った。『人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。』そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきり見えるようになった。イエスは、『この村に入ってはいけない』と言って、その人を家に帰された。」

 「人々が、一人の盲人をイエスのところに連れてきて、触れていただきたいと願った」というのは祈りです。イエスのうわさを聞いていた人々は、自分たちの願い(祈り)が聞き入れられ、この盲人が、自分たちの目の前でいやしてもらえるものと信じていたに違いありません。ところが彼らの期待とはうらはらに、イエスはその盲人を人々から引き離し、「はい、あなたがたの役目はそこまでです」と言わんばかりに、彼を村の外に連れて行ってしまいました。その盲人をイエスのところに連れてきた人たちは、期待を裏切られたと思い、がっかりして「なあんだ」と言いながら帰って行ったことでしょう。自分たちの祈りは聞き入れられなかったと思ったに違いありません。

 ところが「ドッコイ」でした。祈りは聞き入れられたのでした。しかも、最初は目に唾をつけて両手をその人の上に置いて少し見えるようにし、さらに両手をその目に当てて何でもはっきり見えるようにされるという、何とも不思議な、美しいいやしかたでもって、イエスはあの人たちの祈りを聞いてくださったのです。いやされた人のわくわくするような、躍り上がるよ人うな喜びが伝わってくるようです。その様子を見て、ニコニコなさっているイエスのお顔も目に浮かんでくるような気がします。

 しかし、祈った人たちには、あの人が、いつ、どこで、どのようにしていやされた(聞き入れられた)ということは告げ知らされませんでした。大事なのは、祈ること、願うこと、そして願ったことは必ず聞き入れられると信じること、いつ、どこで、どのように聞き入れられるか詮索してはならないこと、いっぺん祈ったら安心して、あちら様にお任せすること、そんなふうに考えているうちに、「祈りは必ず聞き入れられるんだ!」という確信に変わっていきました。

 先週の日曜日(7月25日)のミサの福音の最後の部分で、イエスは、「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(ルカ11章13節)と言われます。


 この個所は、弟子たちが「祈りを教えてください」と願ったときに、「主の祈り」を教えられ、根気よく祈らなければならないと諭され、「求めなさい。そうすれば、与えられる探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」と言われたみことばの後にあるものです。ここを読んでいて感じたのは、根気よく祈れ、執拗に頼め、ということではなく、「天の父が求める者に聖霊をくださらないわけがないでしょう!」というイエスの力強いみことばの中の「優しさ」です。その優しさとは、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(ヨハネ16・23、24節)という最後の晩さんでのイエス様の約束の中にもあらわれていると思います。福音書全体が、このイエス様の「優しさ」で満たされていると言っても過言ではありません。イエス様に近付いていった人たちは、この優しさに触れて、みんな変わっていったのではないでしょうか。

 ところで、話は変わりますが、今、私の体重は72キロ前後で、この7、8年、あまり変化していません。以前と比べると、ずいぶん軽くなったのです。80 キロ近くあったのです。いろいろ考えることがあって一念発起し、減量を試みたのですが、最初はなかなかうまくいきませんでした。2、3キロぐらいはすぐ減るんですが、すぐに元に戻るし、ときには元以上になる。いわゆる「リバウンド」というやつですな。それであるとき、二念発起して、歩くことにしました。万歩計を付けて、それは歩きましたよ。平均して一日2万歩くらい。多いときには5万歩くらい歩いたこともあります。体内の脂肪を燃焼させて減量し、体質改善を図らねば、と思ったわけです。4、5年続けていましたが、痩せ過ぎてヤバいかなと思い、あるとき、思い詰めた減量との闘いから自分を解放して2、3年になります。まだちょっと醜い部分がないわけじゃないんですけど、昔に比べると、少しはマシになった、体質改善できたのではないかと思っています。

 体の方は少し余計なものが取れて、改善できたかもしれないけど、心の方は長年の不摂生で余計なものがくっつき過ぎて、今、心質改善を迫られています。こっちのほうはどうやったらいいのかなあ、と悩んでいたのですが、どうやら方法を見つけたような気がします。まだ一念発起というところまではいかないようなんですが。心の万歩計の数字がまだまだ上がらないのです。

 去年の秋、ある外国人の司祭が講話の中で聖書をかざしながら「これを普通の本だと思ってはなりません」と言われたのを聞いたのがきっかけでした。「キリストの優しさ」に触れること、これが心質改善かなあと閃いたのです。心の万歩計、それは聖書を読みまくること。この万歩計の数字が増えれば増えるだけ、余計なものが自動的に削ぎ落とされて、身動きがとりやすくなる。遅まきながら、そんなことに気が付いて、心の体質改善に努めようと万歩計を付けたところです。自信はないけど、そんなものなくったって、いいんです。「天の父が求める者に聖霊をくださらないはずがない!」というイエスさまのみことばに信頼していれば、どうにかなるんです。いつ、どこで、どうっやて、聞き入れられるかも、詮索する必要はないと思っています。