あなたならどうする?
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
イエス様が、徴税人の家に招待されて、食事をしていた時だったのでしょうか、そこに招待者の仲間たちが大勢押し掛けて来て、自分たちにも何か役に立つ話をしてください、と頼んだのでしょう。イエス様は、「おお、よく来た、よく来た、さあ上がれ、上がれ。一緒に飯でも食いながら、話そうじゃないか」と言って大喜びで彼らを迎え入れました。その人たちは、自分たちがあまり良くない生活をしており、町の「つま弾き的存在」だということは重々承知の上で、イエス様のところへ恐る恐るやって来たのでしょうが、このイエス様の歓迎にどんなに大きな喜びと安堵感を覚えたことでしょう。イエス様は、この人たちの中に町の人たちの「つま弾き的存在」になっている姿を見たのではなく、その態度の中に、目には見えない「回心」の心をご覧になって、そのことのためだけに彼らを歓迎されたのだと思います。
ところが、それを見ていた人々がいました。そしてイエス様が、町のだれもが認めるような罪びとや、いかがわしい商売をしている人と一緒に食事をしていることに眉をひそめ、不平を言い出しました。「この人は罪人たちを迎えて食事まで一緒にしている」と。この人たちは、「つま弾き的存在」の普段の生活態度を思い浮かべながら、彼らを見つめていました。その中に「回心」なんて夢想だにできなかった。無理もありません。それが当たり前だと思います。
この人たちの不平に対して、イエス様は3つのたとえ話をなさいます。「見失った羊」のたとえ、「無くした銀貨」のたとえ、「放蕩息子」のたとえ、です。その中でも「放蕩息子」のたとえ話は一番長い、一つの物語として述べられていて、とても分かりやすい、感動的な話だと思います。
この物語は、二人兄弟の弟のほうが、ある日突然、「わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と父親に言うところから始まります。そして分けてもらった財産を全部お金に換えて、遠い国に遊びに出掛け、放蕩の限りを尽くした挙句の果て、無一文になり、わが身を省みて回心し、父の元に帰ろうと決心をする、というのが、まず設定されています。
この後で、二つの場面が展開されます。まず、帰ってくる息子をだれよりも早く見つけ、憐れに思って駆け寄り、家に連れ帰って宴会を始める父親の大喜びする姿です。「この私が生きているうちから財産の分け前を要求し、それを全部放蕩で使い果たして私を苦しめた悪い奴」という父親の思い、反省と回心を迫る父親の姿は微塵もありません。息子を喜び迎える理由はただ一つ、「死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」ということだけです。
もう一つの場面は、弟と一緒に財産を分けてもらった兄の態度です。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです」という僕(しもべ)の説明に、烈火のように(?)怒って父親にくってかかります。その理由は、「娼婦どもと一緒にお父さんの身上を食いつぶし、おめおめと帰って来た」ということです。
私は最初、イエス様がこのたとえ話をなさった理由は、ご自分が「つま弾き的存在」を迎えて食事していたのを見て不平を言った人々に、この兄の態度を通して、「見た目だけで判断をしてはならない。見えないところで回心しているかもしれない、というところまで思い遣ってほしい」ということを教えたかったのだと思っていました。ですからこのたとえ話は、「放蕩息子」のたとえ話、と言われているけれども、むしろこれは、「いじけた兄」のたとえ話だ、と勝手に置き換えていました。
一方でこれは、どんな罪人でも回心すれば喜んで迎えてくださる「限りなく優しい天の父なる神様」のたとえ話だ、という人がいましたが、それでも私は「いじけた兄」にシツコクこだわっていました。この「いじけ虫」は、まるで私自身だったからです。
最近、私の担当だった日曜日のミサの福音にこの「放蕩息子」が登場していたのですが、私は委細構わず、「いじけ虫」の方に集中しておりました。といっても、この「いじけ」をテーマにこれまで何回か説教していましたから、話の筋書きみたいなものが頭の中に既に出来上がっているような気がして、新しいメッセージといったものが感じられませんでした。
それでも何度も何度も同じところを行ったり来たりしているうちに、ふと一つの思いに捕らえられました。これは「限りなく優しい天の父」の話かもしれないし、「いじけた兄」の話であってもいいけど、あるいはもしかしたら、放蕩の限りを尽くしてボロボロになって帰って来た一人の「罪びと」を見る「二人の人」のたとえ話なのかもしれない、ということです。すなわち、話を聞こうとしてやって来た「つま弾き的存在」を見つめるイエス様の目とファリサイ派の人々や律法学者たちの目が、このたとえ話の中で詳しく説明されているのではないかということです。
イエス様は、放蕩の限りを尽くした一人の人間を設定なさって、この人を見つめる二人の人を並列させておられます。そして一人は、「いなくなっていたのに見つかった」「死んでいたのに生き返った」というこれ以上ないくらい大きな喜びを理由に放蕩した息子を受け入れ、一人は、「父親の身上を食い潰した」という絶対に許せない理由で放蕩の弟を拒否する、というふうに話をもっていきます。
そう言えば、一匹の「見失った羊」を捜しまわった末に、やっと見つけ出したあの牧者は、見つけたとたん、「こんなところで何してた? このバカもの! お前のおかげでどれだけ心配して苦労したと思ってるんだ! 私にこれだけ苦しみを与えたお前は悪い奴だ! さあ来い! もう二度とこんなこと、するんじゃないぞ!」と言って、首に縄を付けてグイグイ引っ張って行ったのではなく、「おお、おお、こんなところにいたのか! 無事で何よりだったなあ! さあ、帰ろう、帰ろう、よっこらしょっ!!」と見つかった羊を喜んで「肩に担いで」(口笛吹きながら)家路についたのでした。
良い牧者も放蕩息子の父親も、限りなく優しい天の父をイメージしているのは確かです。でもイエス様は、「天の父が完全なように、あなたがたも完全な者となりなさい」と言われました。ですから、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要の無い九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」と回心をテーマになさりながら、同時に私に、「放蕩息子を見つめるお前の目は、父親の目? それとも兄の目? 羊を見つけたときのお前は、羊を肩に担ぐ牧者? それとも首に縄を付けて引っ張って行く方? さあ、どうする?」と問い掛けられているたとえ話のようにも思えるのです。
さらに、「この牧者の心、父親の目を持つことこそ、実はお前にとっての回心なんだよ!」と呼びかけておられるような気もします。
なあんて、今回はちょっと真面目ふうに迫ってみたわけですが、これをお読みになった皆さん、さあ、あなたならどうする?
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