何はさておき
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
先日、午後3時過ぎに人と会う約束があって、1時過ぎに出掛ける用意をしておりました。そのとき、ふと考えたのは、3時頃に現地に着いて、それから話を進めたとして、何時に終わるのだろうということでした。電車を乗り継いで、片道約1時間かかるところです。あれこれとしているうちに、2,3時間かかってしまったら、6時までに帰宅するのは難しいな、ということや、30分くらいで用事は済むかもしれないから、6時までには帰って来られるかな、などと考えておりました。うちの修道院では、平日は、毎日、午後6時15分から1時間、共同の聖体訪問があるのです。それに間に合わなかったときのことを考えて、あらかじめ個人的に聖体訪問を済ませておくか、間に合うかもしれないからそのまま出掛けるかということを思い巡らしていたわけですな。
そんな私の頭の中で、「ごちゃごちゃ考えていないで、さっさと聖体訪問に行け!」と何かから命じられたような気がして、私にしては珍しく(!)、「そうだな」とその声(?)に従って、聖堂に赴いて、小1時間ご聖体を訪問し、これで安心、さあ出掛けようと、部屋を出たその時でした。隣の住人の司祭が私と同じタイミングで部屋から出てこられたので、「ちょっと、出掛けてきます」と言って彼に向けた私の背中に、「あれっ、きょうは、3時から会議じゃなかったの?」という声が追いかけてきたのです。
「……えっ、そんな、うそでしょう?」
「確か、会議だったと思いますよ。管区秘書に聞いてみてください」
ほかの人に聞くより、と自分の部屋に取って返し、予定表を見ました。ありました。「○月×日 木曜日 午後3時 会議」と、しっかり書かれていました。「よかった!」と、ホッとすると同時に、先方に電話して、大事な会議が予定されていたことを失念していたと告げてお詫びをし、約束を二日後の土曜日の昼に変更していただきました。
実を言うと、この約束は最初、金曜日だったのですが、先方がその日に先約があったのをお忘れになってて、2,3日前に、木曜日か土曜日にしてもらえないか、と電話してこられたのです。それで、私は予定表も見ずに、「木曜日にお願いします」と即答をしていたのです。その時点から木曜日の昼過ぎまで、私の頭の中に、「会議」の「か」の字もありませんでした。今考えてみると、両方とも同じようなことをしていたわけですな。
それで私は何食わぬ顔して会議に出席したわけですが、内心、「よかった! よかった!」を連発していました。部屋を出る時間が30秒早くても遅くても、私は隣の住人と会うことはなかったわけで、そうしたら私は、会議のことなど、帰って来るまで気が付かずに、のんきに出掛けていたに違いないのです。そして会議の出席者たちは、私の欠席の理由も分からずに会議の時間を遅らせ、不在と分かって不愉快な思いで会議を開始したに違いないのです。
絶妙のタイミングで隣の住人と部屋の前で会ったということは、私が聖体訪問を終え、これで良し、と思って部屋に戻る時間が絶妙のタイミングだったということなんですね。もし、聖体訪問は帰って来てからできると思って出掛けたら、隣の住人と会うこともなかったんでしょうなあ。それを考えたら、「祈りに行ってて良かったなあ!」と思いましたよ。おまけに、土曜の昼に伺ったら、美味しい昼ご飯をご馳走になるし、本来の目的はビジネスの話だったのですが、時間がゆっくりあったので、食事をしながら、先方の豊かな経験談を聞くことができましたし、良いことずくめでした。
それだけの話なんですがね。でも、それでふっと思い出したことがあったのです。最近、黙想会やミサの説教で、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることはできない」(マタイ5・20)とか、「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(同6・33〜34)をテーマに、「ファリサイ派の人々の義」ってどんな義だろう、といったことや、先に求めるべき「神の国と神の義」とは何か、ということを考えたり、話したりしていたのです。
私のことで、ちょっと次元が低くて恥ずかしいのですが、「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」というのは、こんなことなのか、と思いました。「ああでもない、こうでもない」といろいろ理屈をこねて説教していたような気がするのですが、まず神様のところに行きなさい、それから自分のことに掛かりなさい、ということなのか、ということを実感しました。
「弟子の一人がイエスに、『主よ、まず、父を葬りに行かせてください』と言った。イエスは言われた。『わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい』」(同8・21〜22)という個所も、文字通りの意味というより、何をさておいても、神様の呼び掛けに応えることの大切さを示唆しているように思います。
こんな小さな出来事を、ちょっと大げさにとらえ過ぎるのでは、と思われるかもしれません。実は、もう少し前のことですが、これと全く逆のことで、大いに反省し、心で赤面することがあったものですから、余計に心に響いたのかもしれません。「反省し、赤面すること」って? それは紙面の都合上(?)、割愛させていただきます。でも、そうじゃなくても、いつも自分のことが最優先で、あとから反省することばかりなんですよ。恥ずかしながら。
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