待降節に寄せて
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
「バリアフリー」という言葉を最近よく耳にします。身体にハンディのある人たちが安心して生活できるように障壁(バリア)を取り除こうという考えです。 1994年には、「ハートビル法」というのが施行されるようになって、病院、劇場、集会場、デパート、ホテル、駅など、不特定多数の人々が利用する公共的生活の強い建物を、身体障害者や高齢者が円滑に利用できるようにするための建築基準が定められているそうです。教会でも、新築する場合にはもちろんのこと、そのための改築なども積極的になされているようです。
身体にハンディのある人たちにとってこれら物理的なバリアフリーの工夫も、まだまだ十分なものとは言えないと思いますが、物理的なバリアを取り除こうという考えが当たり前になっても、偏見、先入観といった精神的なバリアを取り除くということは、よくよく考えてみると至難の業のような気がします。
熊本県のある温泉旅館が、国立ハンセン病療養所の入所者の宿泊を拒否したという問題が、昨年、全国に衝撃と波紋を広げました。もともと伝染性は非常に弱く、その上特効薬が発見されてから病気はすべて完治するということはすでに常識となって久しいにもかかわらず、長い間の国の隔離政策によって培われた偏見というバリアが、一部の人であるにしても、未だに除去されないでいるという、重大な人権侵害、差別事件でした。
これは特殊なケースかもしれませんが、独断、偏見、先入観、決めつけ、といったバリアが、私たち一人ひとりの心の中にあるというのは、それほど特殊なことではありません。特に一度でも自分が痛手を受けた人に対しては、そのことを抜きにしてその人を見ることはできない、というのは、私だけじゃないと思うんですが、どうでしょうか? 幾つかの出来事で、その人をすべて理解したと思うのが、偏見と言うのでしょうが、こうしたバリアを取り除くことができたら、どんなにフリーになるだろうと、時々、フッと考えることがあります。そんなことを「フッ」と考えるのが「時々」なのであって、無意識のうちに、常に自分の前に大きなバリアを築いているのが私の現実なのです。
福音書の中には、ユダヤ教の「安息日」についての記述が幾つかあります。それらはいずれも、イエス様や弟子たちが、安息日にしてはならないことをして、その掟を守らなかったというものです。弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べた話(マタイ12・1〜8)、安息日にイエス様が、手のなえた人を癒された(マルコ2・23〜28)、腰の曲がった婦人を癒された(ルカ13・10〜17)、水腫の人を癒された(ルカ14・1〜6)、ベトザタの池で病人を癒された(ヨハネ5・1〜18)、生まれつきの盲人を癒された(ヨハネ9・1〜41)という話ですが、イエス様は、人々が見ている前でこんなことをすれば、きっと何か言われるなあ、ということは分かっておられたのだと思います。
でも病気で苦しんでいる人を目の前にして、明日まで待っていなさい、とは言えずに、ご自分が何か言われるよりも、その人に喜びを与えることを優先させるイエス様の優しさが、結果的に「今日は安息日だ」ということに目をつぶらせてしまったということではないでしょうか。その中でイエス様は、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」(マルコ2・27)と言われているのであって、決して安息日を無視してもよいと言われているのではないと思います。
しかし、その場に居合わせたファリサイ派の人々たちは、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(マタイ12・14)とか、「ますますイエスを殺そうとねらうようになった」(ヨハネ5・18)という結果を引き出すことになったわけです。人々に安息日を守らせることが、ユダヤ教の指導者たちにとってどれほど大事だったかということが想像できます。ですからイエス様が安息日にこれらのことをなさったのは、決して見逃してはならない重大事で、そして、そのこともイエス様はちゃんとご承知だったのです。でも、あえて、その日、その時、イエス様には「安息日」という障壁を壊さなければならない理由があったということです。
早いもので、11月28日から待降節、1か月もしないうちに主の降誕を迎えます。イエス様のこの地上における目的と使命は、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」(ルカ4・18〜19)ことでした。それはとりもなおさず、人間同士の間にあるバリアを取り除くことです。福音書全体はこのテーマに満ち溢れています。「安息日」に目をつぶられた、というのもその一つです。
聖パウロもこのことに触れて、「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エフェソの信徒への手紙2・14〜16)と言っています。
気が付かないうちに自分の心の中に築き上げてしまった他人に対する独断、偏見、先入観、決めつけ、といった巨大なバリアを除去するのは、ほとんど不可能ですが、「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19・26)と言われるイエス様のみことばに全幅の信頼を寄せて、特にこの待降節の間、このことを聖霊に祈っていきたいと思っています。
皆さま、よい待降節を過ごされ、よいクリスマスをお迎えください!
これぞ真(まこと)のバリアフリー?
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