目を覚ましていなさい
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
洗礼者ヨハネがヘロデによって牢に入れられたのは、イエス様が宣教生活を始められてから間もなくのことであったと思われます。牢に入れられていたのがどれくらいの期間であったのか、聖書の記事からははっきり知ることはできませんが、そんなに長い間ではなかったはずです。その短い時間の中で、ヨハネの心の変化を示すような彼の言葉があります。
牢の中でイエス様のなさっていることをその弟子たちから聞いたヨハネは、2人の弟子をイエス様のところに遣わして、「来るべき方は、あなたでしょうか。それともほかの方を待たなければなりませんか」(ルカ7・19)と聞いてくるように命じます。かつてヨルダン川で人々に改心を説き、洗礼を授けていた時、自分の方に来るイエス様を見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのはこの方のことである」(ヨハネ1・29〜30)と、聖霊に満たされて力強く人々にイエス様のことを紹介したヨハネにしては、少し自信のない言葉のように思われます。なぜなのでしょう?
牢に入れられて、そんなに長い時間がたっていなかったにもかかわらず、社会から遮断され、弟子たちのもたらす人間的な情報だけを聞いているうちに、自分の心に焼き付いていた「イエス像」が次第に遠のいていったのではないでしょうか。「およそ女から生まれた者のうち、ヨハネよりも偉大な者はいない」(ルカ 7・28)とイエス様から絶賛されたヨハネも、「神の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である」(同)と言われています。この地上でいかに偉大な預言者であっても、人間であることに違いはないということでしょう。
あの偉大なヨハネにしてからがそうなのですから、ましてやこのつみ人である私たちにおいては、何をか言わんや、です。自分という「牢」に閉じこもって、人間のもたらす情報に振り回されていると、私たちもヨハネのように、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」とイエス様に向かって言うことになってしまいます。雑音の中でも本当の声を聞き分けることのできる耳を持ちたいものです。
イエス様はよく「目を覚ませ」とおっしゃいます。時には比喩的な意味で、時にはズバリと。比喩的にというのは、「あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(マタイ25・13)ということのために。ズバリというのは、本当に眠りこけていた弟子たちに対して、「誘惑に陥らぬよう」(マタイ26・ 14)に、ということです。でも、いずれにしても、「目を覚ませ」という言葉に含まれる意味は、肉体的な「眠り」についてではないことは明らかです。比喩的ですけれど、霊的な意味を含んでいます。では、いったい、どのような状態が「眠っている」状態、かつ「目覚めている」状態なのかということをしっかり考えてみなければなりません。実は、この「眠っている」状態を表すイエス様の別の言葉があるのです。
「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」(ルカ21・34)とイエス様はおっしゃって、そのすぐ後で「いつも目を覚まして祈りなさい」(同36)と続けておられます。眠っている状態というのは、無防備な状態で、言い換えればそれは「鈍い」状態ということにもなります。イエス様は、それをルカ福音書の中では、「放縦、深酒、生活の煩い」という言葉に置き換えておられます。このような状態に陥ると、人の心は鈍くなり、それが眠っている状態であるということです。
「鈍い人」というのは、どのような人を言うのでしょうか。人間は年を重ねると、だれでも肉体的には鈍くなります。行動は緩慢になりますし、反射神経も衰えてきます。でも「心の鈍さ」というのは、年齢に関係ありません。若い人でも、心の鈍い人がいますし、お年を召してベッドにいるような人にも、心の敏感な人はいます。心の鈍い人というのは、自分のことにしか興味がなくて、周りで何が起きているか、隣の人が何を言っているのか、全く興味を示そうとしないし、理解できない人ということになるのでしょうか。そして逆に、心の敏感な人というのは、簡単に言えば、自分の周りに気配りのできる人、隣の人の思いを察知できる人ということになるのでしょうか。
しかし「放縦、深酒、生活の煩い」と言っても、一般的にだれもが陥っている状態ではありません。だから私にはとりあえず関係ないんじゃないかな、ということでもないようなんですな、これが。
「酒を飲む人やっこ(冷やっこのこと)に似たり。はじめ四角であとはぐずぐず」と言うのだそうです。豆腐の冷やっこは、どれも最初はきちっと四角なのですが、一度箸をつけると、あっちこっち崩れてしまいます。お酒を飲む人も、たまに最初から最後まで謹厳実直に全く崩れない人もいますが、たいていの人は、はじめは謹厳実直でも、いったんお酒が入ると、まるで食べかけの冷やっこのように、ぐずぐずと崩れてしまいますよね。
ずいぶん前の話になりますが、ある信者さんのご家族から食事に招待されたことがありました。ご主人と奥様と子供たち、それにある修道会のシスター2人と私の、総勢8人でした。食事の席でしたけど、ご主人と私はお酒をも少々(?)いただき、とっても楽しいひとときでした。食事が終わって、酒飲みの2人はほろ酔い加減で、「ごちそうさま」をしたのですが、そのとき、お2人のシスターのうちのお1人が、私の顔をじっと見詰めながら、嬉しそうにこうおっしゃったのです。「きょうは、男の方がお酒を飲んで酔っていかれるご様子を、じっくり観察させていただきました」と。「あ、そんな、卑怯者!」と思いましたが、すでにあとの祭り、ちょっと恥ずかしかったなあ。きっと、「はじめ四角で、あとはぐずぐず」だったんです。
少し次元の低い話になりましたが、お酒を飲むと、しゃべる、笑う、泣く、怒る、威張るなど、周りの状況にはいっさいお構いなく、普段は見せないような別の姿を人は見せるものです。お酒に酔うことで、同時に自分の世界にも酔っているのです。同じように、人は何かに酔い痴(し)れると、周りが見えなくなるということがあります。成功に酔い痴れているとき、絶望や怒りに悪酔いしているとき、悲しみの杯を飲まなければならないようなときなど、自分のことで精一杯で、もう他人のことどころではなくなってしまいます。これを心が鈍くなっている状態というのでしょう。イエス様は、「放縦や深酒や生活の煩いで心が鈍くならないように気を付けなさい」と言われます。心を常に敏感にして、周りで何が起きているかを目覚めて見つめ、何のために祈らなければならないか、どこに手を差し伸べなければならないかをわきまえていなさい、ということだと思います。
今年の「王であるキリスト」の祭日(11月21日)には、ルカ福音書23章35〜43節が朗読されました。その中でイエス様は、議員たち、兵士たち、十字架につけられた強盗の一人から、「自分を救ってみろ」という嘲りを受けます。そのほかにもさまざまな辱めを受け、肉体的にも精神的にも極限状況にありました。そんな中でイエス様は、隣の強盗の「あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」というわずかな改心の声をお聞き逃しになりませんでした。自らの極限状況の苦痛にもかかわらず、それに酔うことなく、隣の人の大事な声を聞き分けただけでなく、それにお答えになります。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と。これが私たちの王の姿です。「目を覚ましている」模範を、その極限状況の中で私たちに示してくださいます。心が鈍くなっている状況から解放されるよう、聖霊の助けを祈り求めましょう。
今年は、国内外ともに、いろいろなことがあった一年でしたが、これにも何かそれぞれ意味があったのだと思います。年末にいろいろ思ったことを、少し長くなりましたが、書き並べてみました。私自身の今年一年の反省でもあり、新しい年に向けての決意でもあるような気がします。
皆さま、どうぞ良いお年をお迎えください!
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