よもやまメール箱

一病息災

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 昨年の暮れ、修道院の近くにある某大学の総合病院に10日ばかり入院しておりました。11月の末ごろから、胸が苦しかったり、血圧が高くなったり感じたものですから、ある朝思い切って病院に行って、総合内科で指示された通り、採血、胸部レントゲン、心電図など、いろいろ検査してもらい、翌週、指定された日に再度出掛けて、検査の結果を聞きました。違和感を覚えていた胸部とか血圧にそれほどの異常はなくホッとしました。どうして入院する羽目になったかというと、前々から健康診断のたびに注意されていた血糖値とヘモグロビンa1cに異常があり、糖尿病の合併症の可能性があるから、10間ばかり至急入院をして検査をする必要がある、ということだったわけです。年末のあわただしい時で、いろいろ予定もあったので、年が明けてからでもいいですか、と担当医に聞いたのですが、できるだけ早い方が良いと言うので、思い切って12月20日から30日まで入院することにしました。

 実は、もう10年くらい前から、健康診断のたびに、「あなたは糖尿病です」と言われ続けていたのですが、《そのうち、そのうち、時間ができたら、ゆっくり治療に専念しよう》と思って、ついつい忙しさを優先させて、生活習慣病が進行するのを放置していたわけなのです。

 薬と厳しい(?)食事制限と運動のお陰か、10日間にわたる検査入院の結果、幸いにして合併症もなく、血糖値もヘモグロビンa1cも若干治まり、無事に退院でき、平和のうちに新しい年を迎えることができました。でも、「食事制限を忘れないように」「体重を増やさないように」「運動を怠らないように」という医師からの厳しい指示があるので、闘病中であることに変わりはありません。おかげで、何かいつも空腹状態で、これに早く慣れなければ、と修行中(?)の身であることにも変わりはありません。

 人の心からの願いであることの一つを、「無病息災」と言いますが、無病、つまり何の病気もなくて、自分は健康そのものだ、という思いが強いと、ついつい無理をし、油断をしてしまい、思いがけないことになってしまうこともあるけれど、病気が一つくらいあれば、自分の弱さを自覚して無理をせず、体を手入れして大事にするから、本当は「一病息災」と言ったほうがいいのだと、聞いたことがあります。もちろん「一病」といっても、医者にかかって治療できる範囲の病気のことですが、意味のある考えだと思います。

 「医者を必要とするのは、健康な人ではなく、病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5・31〜32)とイエス様は言われます。肉体の病気がなくて、自分は健康と思っている人は、「病気にでもなったら医者に行こう」というふうに思うでしょうが、健康であっても用心深い人は、人間ドックに入ったりして、常に自分の健康状態をチェックします。しかし、心の健康状態ということになると、どうなんでしょう。どうやってチェックしたら良いのでしょうか。

 イエスさまは、「罪人を招いて悔い改めさせるために、わたしは来た」と言っておられます。悔い改める、回心、ということを、私たちはふつう、自分の努力で行うことと考えます。間違ってはいません。でもイエス様のお言葉からすると、それよりももっと大事なことがある、それは「招いておられる」イエス様の「呼びかけ」に「答えること」ではないでしょうか。

 1月25日は「聖パウロの回心」の祝日です。この日のミサの第1朗読では、サウロ(パウロの元の名)の回心の場面(使徒言行録22章参照)が朗読されます。パウロが語るその回心の部分を読むと、それは私たちがふつうに理解している回心とは少し違います。その個所でサウロは、自らの意志と努力でまず回心したのではありません。一方的にイエス様に「呼びかけ」られます。その後、「主よ、どうしたらよいでしょうか」という問いかけをし、イエス様の指示に従った、つまり「招き」に応えた、というところからパウロの「回心」が始まります。

 ペトロ、アンデレ、ヨハネ、ヤコブに対するイエス様の呼びかけ(マタイ4・18〜22)も、彼らの「回心」と結びつくような「応え」がそこに見られます。「二人はすぐに網を捨てて従った」「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」とあります。これもイエス様の「招き」に「すぐに」応えたということです。

 ところで、この四人がイエス様の呼びかけに「すぐに」応えた時、イエス様はどんなにお感じになったのかなあと考えます。《私には自信がある。私には予知能力がある。この人たちは、私が呼べばすぐに従うはずだ》と思って呼びかけられたのでしょうか。彼らが「すぐに」したがった時、《ほら、やっぱり》と思って、別に何ともお感じにならなかったのでしょうか

 そうは思いませんね.イエス様は、《ついて来てくれるだろうか》と思いながら声をおかけになったのではないかと思います。人間としては、やっぱり少しの不安もあったのではないでしょうか。だから彼らが「すぐに」従って来たとき、本当に嬉しかったのだろうと思います.《そうか、来てくれるか!》と。

 この喜びが、「ぶどう園の労働者」のたとえ(マタイ20・1〜16)にも反映されているような気がします。このたとえ話の最後のところで、ぶどう園の主人は、「わたしはこの最後の者にも、あなたがたと同じように支払ってやりたいのだ」と言います。どうしてなのでしょう。最初に来た人たちは「1日につき一デナリオンの約束」で、その後の人たちは「相応しい賃金」で、そのほかの人たちにも「同じように」して、主人に雇われました。これは契約です。ところが、最後の人たちは、すでに日没間近で働く時間もわずかしかなかったし、約束もありません。ぶどう園に行ってどんな仕事があるかも分かりません。何の報いも約束されていなかった。にもかかわらず、主人の呼びかけに応えてぶどう園に行ってくれたことが、この主人を本当に喜ばせたのです。だから最初から働いている人たちと同じように支払ってやりたいと思ったのでしょう。

 逆に、いちばん最後にイエス様に呼びかけた人はだれだったでしょう。それは、イエス様の十字架の側で同じく十字架に付けられていた犯罪人です。彼は「イエスよ」と呼びかけます。そして続けて「あなたが御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と祈ります(ルカ22・42)。今まで犯罪人だったこの人は、この一言でイエス様をこの上なく喜ばせ、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43)と言われて、大きな報いを約束されました。イエス様の呼びかけに応えることは、どんなにイエス様を喜ばせすることか、ということを考えなければならないし、私たちからの呼びかけを、イエス様はいつも待っておられるということを、決して忘れてはならないと思います。

 医者からの呼びかけと招きに応えて入院したお陰で、悪いところをチェックできて良かったなあ、と思い、「一病」抱えながら、空腹に慣れる修行を喜んでしている今日このごろです。

 イエス様からの、わけの分からない厄介な仕事、隣人への奉仕、祈りなどへの呼びかけにも「すぐ」に応えて本当の回心ができるよう、聖霊の助けを求めている今日このごろでもあります。こっちも「一病息災」であれば、と思っております。