アーメン
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
「アーメン」と言えば、信者でない人でも「キリスト教」と分かるくらいに有名な祈りの言葉です。キリスト教にはたくさんの教派がありますが、「アーメン」という祈りの言葉を唱えていない教派は、恐らくないのではないでしょうか。「そうでありますように」という意味を持つこの祈りの言葉は、キリスト教徒が祈りを唱えた後に、締めくくりとして用いられますが、あまりにも広く用いられ過ぎていて、もはやその意味があまり考えられていないのではないかと思うときがあります。
キリスト教の集いで祈りを先唱する人が、「これらの願いを主キリスト様の御名によってお願い致します」と言うと、会衆は一斉に「アーメン」と応えます。カトリックでは、個人的に祈るときはもちろんですが、教会で祈りの先唱者が「父と子と聖霊の御名によって」と唱えた後や、司祭がミサの中で、「主キリストによって」と祈願文を唱えた後などに、信者は声を合わせて、「アーメン」と応えます。このように公私の区別なく、「アーメン」という祈りは、いつも反射的に、習慣的に、あまり意味も考えずに唱えられていますが、最近、私はこの「アーメン」という祈りがとても気になるようになりました。
それは、ミサの聖体拝領のときに、司祭が「キリストの御体」と唱えて差し出す御聖体を、信者が拝受しながら答える「アーメン」という祈りです。この「アーメン」は、祈りの結びとして唱えられる普通の「アーメン」とは少し意味が違うような気がします。
教皇様は、2004年10月から2005年10月までの一年間を「御聖体の年」とお定めになりましたが、それに先立つ2003年の4月に、「教会にいのちを与える聖体」という回勅をお出しになりました。その回勅の第6章は「『聖体に生かされた女性』であるマリアのまなびやで」となっており、その章で教皇様は次のように述べておられます。
「マリアは神の子を、真の意味での肉体において、すなわちからだと血において身ごもりました。こうして、マリアの中で、ある意味であらゆる信者において秘跡のかたちで行われることが、それを先取りするかたちで始まりました。信者はパンとぶどう酒のしるしのもとに、主のからだと血を拝領するからです。
したがって、マリアが天使にこたえていった『おことばどおり、この身に成りますように』(Fiat)ということばと、すべての信者が主のからだを拝領するときに唱える『アーメン』ということばの間には、深い類似があるのです。マリアは、自分が『聖霊によって』身ごもったかたが『神の子』であると信じるように求められました(ルカ1・30—35参照)。わたしたちもおとめマリアの信仰に続いて、聖体の神秘のうちにこう信じるよう求められています。すなわち、神の子でありマリアの子であるこの同じイエス・キリストが、パンとぶどう酒のしるしのもとに、そのまったき人性と神性において現存しているのだと」(55)。
教皇様のこのお言葉を、次のように言い換えることもできます。マリア様は、人間としての知識で、ご自分の胎内に神の子が宿ることがどういうことであるか完全に理解できなかったし、これからご自分がどのようなことを体験しなければならないかを理解することもできなかったけれども、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」(ルカ1・35)と言う天使の言葉の中にある神秘を信じ、信仰のうちに、「お言葉どおり、この身に成りますように(アーメン)」(同38)とお答えになりました。
同じように、私たちもご聖体を拝領するときに、司祭が唱える「キリストの御体(イエス・キリストが、このパンとぶどう酒のしるしのもとに、そのまったき人性と神性において現存しておられます)」という言葉を、人間としての知識で、自分の体の中に神がおいでになるということがどういうことであるのか、これからそのことが自分の中でどのように実を結んでいくのか理解できないにもかかわらず、その神秘を信仰のうちに「アーメン(お言葉どおりに、この身に成りますように)」と言ってご聖体を受けているはずなのです。
ということは、マリア様の「アーメン」が一回限りの「アーメン」で終わらずに、神の子がその使命を果たして御父のもとにお帰りになるまで、一つ一つの出来事を、すべて理解できなかったにもかかわらず、心に納めながら、思い巡らしながら、ご自分から答えを出すことなく、聖霊にすべてを託して「アーメン」と受け続けていかれたように、聖体拝領のときの私たちの「アーメン」も、一回限りの「アーメン」ではなく、私たちの人生に神から示されるさまざまな神秘を、たとえすべて理解できなくても、自分勝手にすぐ答えを出してしまうのではなく、時には思い巡らしながら、時には心に納めながら、聖霊にすべてを託して、信仰のうちに「アーメン」と答え、受けていかなければならないということになるのでしょう。
それが最も賢明で、楽な生き方のような気がします。自分が賢いと思う人は、何かにつけ、その賢さを元にすぐ答えを出して、時には、間違っている自分が出したその答えを自分の背中にくくりつけて、それを一生背負っていくということにもなりかねません。賢くない人は、答えが出せないから、それを背負っていくという苦労から解放されているわけで、楽でしょうなあ。そんな人になれたらなあと思います。
「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
目を留めてくださったからです。」(ルカ1・47—48).
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。……疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。……そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11・25— 30)。
「主なる神はわたしの耳を開かれた。
わたしは逆らわず、退かなかった。
打とうとする者には背中をまかせ
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、嘲りと唾を受けた。
主なる神が助けてくださるから
わたしはそれを嘲りとは思わない」(イザヤ50・5−7)。
イザヤ預言者のこのことばの中に、受難に向かうイエス様の、御父に対する心からの「アーメン」があるように思います。
わたしも、もっと意味のある「アーメン」を唱えられる生き方ができますように。アーメン。
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