名前の力
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
1978年にパウロ6世教皇が逝去されて新しい教皇が選ばれ、新教皇がその名前を、「偉大なる前々任者のヨハネ23 世と前任者のパウロ6世の名前をいただいてヨハネ・パウロ1世とする」と発表された時、全世界のカトリック信者はその素晴らしいアイデアに感動したものでした。残念ながら、わずか一か月で同教皇は急逝されましたが、その後に選ばれた新教皇が、ヨハネ・パウロ1世の遺志を継いで「ヨハネ・パウロ2世」となさった時も、私たちは同じように感動したのを覚えています。
26年間親しんできた「ヨハネ・パウロ2世」という名前の教皇が逝去されて新しい教皇が選ばれ、その発表と同時に「ベネディクト16世」という新しい名前が発表された時に、多くのカトリック信者は、新しい教皇がどうしてその名前を選ばれたのか、その名前に何を託されたのか、ということを考えたのではないでしょうか。
今から約90年前の1914年(聖パウロ修道会の創立の年でもあります)に即位されたベネディクト15世が目指した平和、対話を、新しい教皇も倣いたいという思いでこの名前を継がれたということを知って、前任者の遺志をしっかり守っていこうという決意の表れと納得しました。
教皇様の話の後で本当に恐縮なのですが、私も自分の名前には結構こだわっております。自分で選んだものではないのですが。
私の名前はよく間違われます。「お名前は?」と聞かれて、「あかばえです」と言っても、一度で「ああ、そうですか」と納得されたためしはありません。よく「わかばやしさんですか?」と聞き返されることがあります。「赤い波に江戸の江と書いて、あかばえと言います」と言うと、たいてい「へぇ、珍しいお名前ですね」と言われます。漢字を見てすぐに「あかばえ」と読んでくださる人もほとんどいません。長崎県の五島列島に「赤波江」という小さな村があります。すっかり人口が少なくなってしまいましたが、そこの住人はほとんどが「赤波江」と名乗っています。浜辺と陸(おか)までの土手のことを、かつて「波江」と言っていたそうですが、そこに夕陽が当たって赤くなるので、「赤波江」という苗字にしたのだそうだ、ということを昔、父親から聞いたことがあります。真偽のほどは定かでありません。
「謙遜な者になるように」という願いを込めて、両親が「謙一」とつけてくれのでしょう。「名は体をあらわす」と言いますが、必ずしもそうとは言えないようで、両親の願いは実現することなく課題として残され、この年になるまで、いまだに願いのところで留まっています。
洗礼名の「マティア」は、イエス様を裏切ったとされる「ユダ」の後任として選挙で選ばれた使徒の名前です。マティアは12使徒の一人には違いありませんが、イエス様から直接に選ばれたのではなく、「補充」として(?)弟子たちから選ばれたわけです。この私も、いつも補充用員という運命と共に生きているようで、こちらの方は名が体をあらわしているような気がします。でもマティアは聖霊によって選ばれたのですから、私の補充人生も聖霊のお働きに託しております。決していじけたりはしておりません。いつも、選ばれた、と思っていようと思っています(そう思ってないと、やってられないときもある!)。
名前へのこだわりと言えば、日本人の場合、自分の子供に名前をつけるとき、あるいは両親につけてもらった名前ではどうも具合が良くないと思うようなとき、よく姓名判断に頼るということがあります。私は研究したことがないのでよく分かりませんが、「名前には力がある」ということへの、一種の民間信仰といったものなのかと思います。ですからカトリックでは、そんなことを信じるのは迷信を信じるのと同じことで罪になる、とかつて言われていたような記憶がありますが、最近はそんなことを言う人はいないような気がします。民間信仰といっても、宗教的な意味での「信仰」ではありませんし、迷信というよりも「名前を大切に」という日本人の心の表れ、気休めといったもので、それほど気にすることではないのかな、と思ったりもします。
思い入れや、漢字の画数のことではなく、もっとこだわる必要のある名前があります。「名前には力がある」という信仰は、実際に存在しているのです。
「わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4・12)と言うのは、イエス様が死者の中から復活され、昇天された後、聖霊の満たしを受けたペトロです。神殿で説教しているところを祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々に捕らえられ、議員たちからの取調べに対して、イエス・キリストのことを証しするペトロの言葉です。
このペトロの言葉は、彼の単なる思い付きではありません。イエス様ご自身からペトロが聞いた言葉なのです。最後の晩餐の時に、何度も聞いた言葉なのです。
「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」(ヨハネ14・13)。
「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(同14)。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、またわたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(同15・16)。
「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」(同16・23)。
「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(同24)。
「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」(同26)。
イエス様のこれらのみことばは、単なる勧めではありません。はっきりとした、絶対的な約束です。「取って食べなさい。これはわたしの体である」「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ 26・26〜27)というみことばに基づくご聖体の秘跡に対する信仰が絶対的なものなら、「わたしの名によって願うことは必ずかなえてあげよう」というみことばに基づくイエス様の名前に対する信仰も、同じように絶対的なものであるはずです。
ペトロは確信をもって、「ほかのだれによっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と言っております。
人間の名前、自分の名前に願いを込めてこだわるのもいいと思いますが、それよりももっとこだわるべき名前があるということを忘れてはならないと思います。
イエス様が教えてくださった「主の祈り」の冒頭に、「御名があがめられますように」とあります。イエス様は、御父の御名があがめられることがまず第一番目に大事なことと言われます。私たちがイエス様のお名前を大切にし、そのお名前によって御父に何かを願うことが、御父の「御名をあがめる」ことになるのです。
ですから、ご復活への信仰、ご聖体への信仰と同じように、イエス様のお名前への信仰も、決しておろそかにしてはならないものです。もっと日常的に、そしてもっと真剣に、「私たちの主イエス・キリストの御名によってお願い致します」と唱えましょう。「必ず聞き入れてあげよう」と言われたイエス様のお約束に、絶対的な信頼をもって。
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