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頑張り過ぎないで!

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 厚生労働省は今年の6月1日に、昨年2004年の自殺者の数が3万277人に上ると公表しました。この3万人という数は、1998年からずっと続いているそうです。

 自らの命を絶つには、仕事、人間関係、闘病、介護、いじめなど、さまざまな理由があります。最近は、自殺願望者がインターネットで連絡し合って、集団で自殺するということが起きているようです。その原因はよく分かりませんが、知っている人が自分の命を自ら絶ったと聞いたときに、多くの人は「どうして? もっと頑張れなかったのか?」という思いを抱くのではないでしょうか。自分の周囲からの、あるいは自分の責任感からの要求に応じようとして精一杯頑張ってきたけれども限界だと感じ、頑張ってきた自分を解放したくて、ある時、思いあまって発作的に、自分の命を絶つのではないかと思います。

 厚生労働省が今回公表したこの数の中では、特に働き盛りの世代の男性の数が最も多いということです。働き盛りと言えば、過労死する人の数も年々増えてきているようです。会社からの無理な要求に応じようとして寸暇を惜しみ、睡眠を犠牲にして頑張った結果、起こることであるわけですが、遺族が過労死の認定を申請しても、実際に過労死と認定されるのは、申請数の半分くらいということだそうです。一家の大黒柱が、愛する子供が、会社のため、家族のために身を粉にして働き、疲れ果てて死んでも、過労死と認定されない遺族の方々のことを思うと、なにかやり切れないものを感じます。

 過労死の原因は極度の疲労ですが、人が自分の命を絶つということで考えられる一つの共通の原因も、「疲れた」ということではないでしょうか。仕事に疲れた、人間関係に疲れた、闘病生活に疲れた、肉親の看病に疲れた、勉強に疲れた、いじめに耐えることに疲れた、生きていることそのものに疲れたなど、自分におおいかぶさってくるさまざまなプレッシャーやストレスから、これ以上自分を守ることができなくなった、ということではないかと思います。

 人の死をそんな簡単に結論づけてよいとは思いませんが、自殺にまで至らなくても、現代社会の中で、多くの人がさまざまなストレスと緊張の中で「疲れ」を感じているのは事実だと思います。「今の時代ほど……な時代はなかった」とよく言われますが、この「疲れ」というのは、現代の特徴ということではなく、人間がこの地上に生きているかぎりの、大きなテーマだと思います。どうして人間は疲れるのか考えてみたことはありませんか?

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11・28〜30)というイエス様のみことばに接して、私自身の「疲れ」ということを考えてみました。

 疲れたときの体に現れる症状は、肩こり、胃痛、歯茎の腫れといったもので、仕事が重なってストレスがたまると、必ずこの症状が出てきます。そして疲れの原因となる仕事のことを考えてみると、そこには必ず、「どうして私がこんなことをしなければならないのか」「早く済ませて自由になりたいけど、なかなか片付かない」「これが済んだらあれをしなければならない」「できることならこんなことはしたくない」などという思いが無意識の中に頭の中にこびりついていて、一つ終わるたびに、「ああ、疲れた」というため息のようなものが、思わず口をついて出てくるような気がします。ところが、そうではなくて、自分から進んで喜んでやっていることに関しては、肉体的な疲れは生じても、「心身ともに疲れた」という思いは全く感じないのです。

 人間は、本能的に自分を守るようになっていて、無意識のうちに自分を守らなければ、と働いているような気がします。自分のことを自分で十分に守れている、ほかの人もそれに協力してくれていると感じるときは安心なのですが、守ろうとしても内外からのさまざまな要求に応じることができなかったときに、「疲れた」と感じるのではないかと思います。自分を守りたいということに、私たちはどれほどのエネルギーを使っているのでしょうか。自分を守ろうというこの緊張感のために使うエネルギーは大変なものだと思います。そのエネルギーを自分以外のことに振ることができたら、つまり過度の自己防衛的姿勢から自分を解放してやると、肉体的には疲れても、明日まで精神的な疲れを引きずらなくて、ずいぶん楽になれるのではないかと思います。「疲れた者はわたしのもとに来なさい」というイエス様の招きは、自分のことばかり、自分を守ることばかり考えてないで、自分の周りを見回して自分以外のことに、喜んで働きかけてごらんなさい、ということかな。

 「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのためにそれを失う者は、かえってそれを得るのである」(マタイ10・30)というイエス様のみことばは、そんなことを意味するのではないでしょうか。

 「……三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。……母が言った。『なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。』するとイエスは言われた。『どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。』しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。……母はこれらのことをすべて心に納めていた」(ルカ2・46〜51)。あせってすぐに自分で答えを出して、その答えで自分を守ろうとしないで、母マリアのように疑問は静かに心におさめて、答えは聖霊様にお任せしてごらんなさい、ということです。御父は大切なことを、すぐに答えを出す「知恵のある者や賢い者には隠して」、自分では答えを出さないで聖霊様にお任せする「幼子のような者におあらわしになる」(マタイ11・25参照)とイエス様はおっしゃいます。これはマリア様のことですね。そのみ心は、まさに自分で自分を守ろうとしない「聖霊の神殿」なのです。

 さる先進国の考古学者が、発掘調査のために現地の人を雇って、発掘現場に向かいました。考古学者の一行ははやる気持ちを抑え切れずに、雇い人たちを急き立ていました。ところがある時、この雇い人たちが止まったまま、前に進もうとしません。学者はいらいらしながら雇い人たちに尋ねました。
 「いったいどうしたというんだ、何が不満なのか?」
 雇い人たちは静かにこう答えました。
 「私たちは、あまりにも早く来過ぎてしまいました。少し休まないと、魂がついて来られません」

 この前、朝早く、近くの公園を散歩していたら、一人のジョギング中の若者が、元気よく、力強い息遣いとともに私の側を駆け抜けて行きました。
 「おっ、頑張ってるな!」と心の中でエールを送り、見るとはなしに彼のTシャツの背中に大きく書かれていた文字を読んで、思わず笑ってしまいました。

“頑張れ言うな 頑張っとんねん!”