よもやまメール箱

宝探し

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 聖書の中には、「天の国」のたとえ話がたくさん出てきます。マタイ福音書を見ると、「毒麦」のたとえ、「からし種」のたとえ、「パン種」のたとえ、「畑に隠された宝を見つけた人」のたとえ、「高価な真珠を見つけた人」のたとえ(以上13章)、「ぶどう園の労働者」のたとえ(20章)、「婚宴」のたとえ(22章)、「10人のおとめ」のたとえ、「タラントン」のたとえ(以上25章)が、いずれも「天の国は…に似ている」とか、「天の国は次のようにたとえられる」という言葉で、イエス様は「天の国」のことをお話しになるのですが、いくら想像力をたくましくしても、いわゆる「天国」のことを、これらのたとえ話から導き出すことはできません。

 私たちの「天国」についてのイメージは、宇宙のはるかかなたの空の上とか、暑くもなく、寒くもなく、きれいな花が咲き乱れているところ、天国の鍵を持っているペトロが天国の門で待っている、といった程度の貧しい域を出ることはできません。

 「天の国」のことを論ずるのは無駄とは言いませんが、いくら論じても結論は出ないし、人間の想像には限界がありますから、想像の世界にはこだわらないで、次の世界のことに関しては、「からだの復活、永遠のいのちを信じます」というところにとどめて、あとは神様にすべてお任せすればよいのです。

 では、「天の国は次のようにたとえられる」というイエス様のみことばを、どのように受け止めればよいのでしょうか。

 これらのたとえ話の一つ一つは、どれも「天の国」に行くための準備の話になっており、同時に、この世に「天の国」が実現されるための話になっています。この世のいのちの終わりは、新しい本来のいのちの始まりです。「天の国」のたとえ話は、この新しい本来のいのちに入るための準備を整えなさい、ということであり、その準備はそのまま、私たちの間に「天の国」を実現させることになるのです。

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」(マタイ13・44)。

 ただの畑です。素晴らしい実りをつけた特別な畑というわけではありません。でもその平凡な畑に、とんでもない貴重な宝、持ち物を全部売り払ってでも買うだけの価値のある宝が隠されていることを知りました。いつも探していたおかげで、だれも知らないような賢いやりかたで、それを探り当てることができたのです。

 「畑」が意味するのは、あまり変化のない、だれが見ても平凡な私たち一人ひとりの日常生活です。このなんの変哲もない日常性の中に宝が隠されているというのです。

 現代人は、平凡な生活をあまり好みません。刺激を求め、時間に追われ、非日常的なことの中に身を投じて、刹那的な、ひとときの満足と充足を感じようとあせっています。大人の世界の病気が、子供の世界にまで曼延してきているように思われます。

 昔の人は、もっと賢かったような気がします。平凡な日常性をたいせつにした時代は遠い過去のものとなりました。あの時代は、みんな今よりもっと平和で、もっと仲良く暮らしていました。平凡な日常をたいせつにするということは、ほかの人をたいせつにすることにもつながると思います。今は、他人のことどころではありません。他人に負けまいとして、平凡な日常から逃げようとしているからなのでしょうか、自分のために頑張り過ぎて、疲れ果てているような気がします。

 平凡な日常は、自分の務め、義務さえ果たし終えたら、あとは自分の世界に浸るのではなくて、自分が自由に使える自分の時間の中で、自分の力、自分の知恵、自分の経験、自分の未来といったものを、ほかの人のためにいかに使うかということで、宝が隠された畑になるように思います。そのことが分かったら、自分の物を全部売り払ってでも、その平凡な日常という畑を買うことを恐れない、賢い者になれるのではないかと思います。なんでも自分のためだけに使おうとすると、日常が平凡で退屈になって、刺激を求めたくなるのではないでしょうか。

 「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。『神の国は、見える形では来ない。『ここある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ』」(ルカ17・20〜21)。それも、平凡な日常生活の間にあるのだ、と言われているような気がします。

 一人のカトリック司祭が、道でユダヤ人のラビに会い、大きな声で挨拶をしました。

 「やあ、これはラビ、いいところでお会いしました! というのは、昨夜私は、ユダヤ教の天国にいる夢を見たのですよ。いやあ、ユダヤ教の天国というのはひどいところでしたよ。臭くて、ゴミだらけで、実に汚いところでしたなあ!」

 「ほお、神父さんがユダヤ教の天国の夢を見られたと? これは偶然だ。実は私も昨夜、カトリックの天国にいる夢を見たのです。カトリックの天国のきれいだったこと! 言葉では言い表せないくらいですよ。明るくて、きれいな花がたくさん咲いて、良い香りがいっぱいに広がって、………でも、だあれもおりませんでしたぞ?」

 カトリックの人にとっては、ちょっと耳のかゆくなるユダヤ人のジョークですが、「天の国とはこのようなもの」ではありません。くれぐれもお間違いのないように!