よもやまメール箱

夏の思い出

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 1978年7月から1年間、フィリピンのマニラに滞在し、その間、イエズス会経営の東アジア司牧研究所(East Asian Pastoral Institute = EAPI)に寄宿して、アジア諸国で宣教している司祭、修道者、信徒の方々約80人と司牧研修コースに参加していたことがあります。7か月と1か月の二つのコースを受講し、いずれも第二バチカン公会議後のアジアにおける新しい司牧への試みについての研修だったのですが、帰国直後、全寮制高校の寮の舎監という仕事を命じられ、寮の舎監司祭というよりも、寮生を追っかけまわす看守といった仕事に日夜明け暮れ、4年間を過ごしているうちに、何を研修してきたのか忘れてしまいました。でも、研修の合間の休暇を利用して、日本からの同僚や、諸外国の仲間、パウロ会の兄弟たちと訪れたバギオ、ミンドロ島、ミンダナオ島などの自然の美しさは、今でも鮮明に思い出すことができます。

 中でも、クリスマス休暇中にEAPIが企画したChristmas Exposure で訪れたミンドロ島のことは、これまでいくつか訪れた外国のどの地方よりも、私の心の中に大切な思い出として残っています。その思い出というのは、ねむの木に豪華なクリスマスツリーのイルミネーションのようにびっしり群がって、競うように輝いていた蛍の美しさであり、マンニャン村の村長マキシモさんが振る舞ってくれた自分の畑の椰子の実のナチュラルジュースの味であり、村を流れるドランガンリバーの急流で、村の少年と競泳をして惜しくも負けた口惜しさ(?)であり、爆竹や花火の音を聞きながら、ありあわせの貧しい材料を最大限に工夫して仲間と作った、大晦日の夜の何とも言えない奇妙な料理の味といったようなものです。そんななかに、すんでのところ、命を落とすところだった、ちょっと怖い思い出もあります。

natu2.jpgマンニャン村の村長マキシモさんの家の庭でココナツをごちそうさま。 前列右から3人目がマキシモさん。

 10日ばかりの企画だったその小旅行には、最初15人くらいが参加したのですが、自分たちとマンニャン村の文化的なレベルの差に耐えられずに、3分の2は3日くらいでマニラに戻ってしまいました。自分たちのことをコア・グループと称して最後まで残ってそこでの生活を満喫したのは、EAPIのスタッフでスペイン人のペペ神父、台湾出身のシスター・ローザ・シュ、同じく台湾で宣教していたイギリス人のシスター・グレタ、インドネシア出身のシスター・ドミニク・ニ・ゴ・スワンと小生の計5人でした。

natu1.jpgマンニャン村の宿泊所・多目的ホールでのコア・グループ。 後列左よりシスター・グレタ、シスター・ドミニク。前列左よりぺぺ、小生、シスター・ローザ。

 ちょっと怖い思い出というのは、このコア・グループと過ごしていたときのことです。ある日私たちは、ドランガン河の岸伝いに上流の方まで探検に出かけたのですが、私とペペはそこで泳ぐことにしました。私はカメラを持っていたので、水遊びをする一方で写真を撮っていたのですが、ペペは私と離れたところで泳いでいました。ふと見かけたぺぺは、清流をゆったりと泳いでいるように見えたのですが、そのペペが大きな声で私を呼ぶので、耳を傾けて聞くと、ゆったりと泳いでいたように見えたペペの様子は、どうやら急流に押し流されていた姿だったらしく、その結果、彼は河の真ん中にある小さな州に、不本意ながら不時着せざるをえなくなってしまったらしいのです。

 そして私を呼んだわけは、自分は一人でここから岸に泳いで行くことができないから、ここに来て自分を助けてくれ、という私へのSOSだったのです。私は、一瞬、えッと思ったのですが、彼を助けてあげられそうなのは、私しかいませんでした。泳ぎには少々自信があったし、そんな急流にも見えなかったのですが、水の中に入って泳ぎだしてはじめて、緩やかに見えたその流れが、実際には凄くきついことに気がついたのです。平泳ぎでも抜き手でもなかなか前に進まないのです。泳ぎながら焦り、やがて恐怖が襲ってきました。そこから数十メートル下流は、けっこう大きな滝になっていたような気がします。

 やっとの思いで元の場所に戻って、自分にはできないとペペに告げてはみたものの、いったいどうしたらいいのか、凄く心配になりました。どれくらいの時間が過ぎたのか覚えていませんが、河の向こう岸に、2人の現地の青年がいるのが見えて、ぺぺと私は、身振り手振りを交えて大きな声で、助けてくれと叫びました。彼らはすぐに状況を理解したようでした。そして、なんと腰のあたりまでの深さのその急流を2人はじゃぶじゃぶと、こともなげに歩いて渡り、ぺぺを抱くようにして、またこともなげに、こちらの岸に連れて来たのでした。

 河のことを知り尽くしている現地の人の凄さに舌を巻き、感動し、感謝して、ホッと胸を撫で下ろしたのですが、もし自分が無理をして何とかしようと思って泳ぎ続けていたら、きっと力尽きて滝壷に……、たとえペペのところに泳ぎ着いたとしても、あの現地の青年2人が現れなかったとしたら、帰りにペペと一緒に滝壷に……と思ったら、あのとき祈ったかどうか覚えていないのですが、今でも、あの青年2人が神からの使いのように思えてならないのです。あの2人は何のためにあそこにいたのでしょうね。

 夏になるといつも思い出す、フィリピンはミンドロ島・マンニャン村・ドランガンリバーでのひとコマです。この前、聖書を読んでいて、たまたまこれと同じような個所に出会って,《そう言えば…》とミドロのことを思い出したものですから、ちょっと紹介したくなりまして……。聖書の個所とは?

 「舟は……逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐに彼らに話しかけられた。『安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。』すると、ペトロが答えた。『主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。』イエスが『来なさい』と言われたので、ペトロは船から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ。イエスはすぐ手を伸ばして捕まえ、『信仰薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた」(マタイ14・24〜 31)。

 実際に助けてもらったのはペペだったのですが、自分が助けてもらったような気がしているんですね。水の中に入って泳ぎ始めたときのあの怖さをまだ記憶しているからだと思うのです。それまでの水の記憶というのは、自分が育った長崎・佐世保市郊外の入り江の静かな、波もほとんどないような海でしたから。だから、上記の聖書の個所を読んでいて、大波の中だったにもかかわらず、ペトロが、「あなたでしたら、私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」というところで、海の怖さを知らないはずのないペトロが、よくそんなことを言ったな、と改めておどろいてしまったわけです。

 でもこれは、ペトロの好奇心とか、イエスかどうか試したペトロの猜疑心、怖いもの知らずの無鉄砲といったものではなく、ペトロの信仰宣言のようなものではないでしょうか。「あなたがお命じになれば、私はそちらに行くことができます」というイエスに対する信仰ですね。沈みかけそうになって、「主よ、助けてください!」と叫んだペトロのことばも、彼の信仰表明だと思います。

 どんなときにでも、「そこにいらっしゃるのが、主よ、あなたでしたら、そちらに行くようにお命じください」とイエスに訴えることがができれば、イエスは必ず「来なさい」と言ってくださいますし、途中で沈みかけても「助けてください!」と信頼をもって叫んで、手を伸ばしてイエスに捕まえてもらえば、今、幽霊か亡霊でも見ているようなイエスに対する私の信仰は、いつかきっと生きたイエスと感じる信仰に変わっていくと思います。

 暑かった夏が終わりに近づくと、いつも《今年も泳ぐチャンスがなかったなあ》と思ってしまいます。最後に泳いだのはいつだったかなあ。確か、15年くらい前に、五島の海で泳いだときだったような気がします。

 皆様、残暑に負けないで、お過ごしください。