「私の知らない世界」の話
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
数か月前のことです。つい最近まで、思い出したくもなかった出来事ですが、ある黙想会の講話の中で、“この前、こんなことがありました”と話し出して、自分でも少し驚いています。
ある日の午後の電車の中での出来事です。私の左には女子高校生が、前の座席の右には2人の若い男性が座って、それぞれ携帯電話でメールを打っていたようでした。私のズボンのポケットの中でその時、マナーモードにしていた携帯が“ブブブ、ブブブ”と着信を知らせてきました。
“優先席の近くでは携帯電話の電源をお切りください。その他の場所ではマナーモードに切り替え、通話はお控えください”という車内のアナウンスはどの電車の中でも耳にします。そのようにしておりますし、電車の中で電話を掛けたことはありませんが、着信の合図に気が付けば、メールか電話か確かめますし、電話であっても大切な用事の相手からと分かれば、内容を確認し、小声で“今、電車の中ですから、また後で”と、周りに迷惑にならないように手で口元を抑えて話すくらいのことはします。
その時も、時間の打ち合わせの電話で、“はい、はい、分かりました”という程度の内容でしたので、すぐ切るつもりで小声で話していました。周りのだれも気にもしていなかったと思います。しかし、まだ切り終わらないうちに電車が止まり、わずかの人が乗ってきました。そして突然、一人の男性が大声で叫んだのです。
“おい、電話はやめろ!”
車内の人の視線はいっせいに、その声の主の方に向けられました。私も携帯を耳に当てたままそちらの方を振り向き、そして、その声が自分に向けて発せられたものであることが分かって、非常に驚きましたが、まだ電話は終わっていませんでしたので、《すぐ終わるよ!》と心の中でつぶやきながら、そのまま小声で話し続けていました。ところが、その中年男性は、自分の注意に耳を貸そうともしない私の態度に憤りを感じたらしく、私を指差し、追い討ちを掛けるように叫びました。
“おい、お前、電車の中で電話をするのはやめろと言ってるんだ! いい歳をして、恥ずかしくないのか!”
「いい年をして」という言葉にまずムッときました。「恥ずかしくないのか」という言葉には、《自分のしていることは、恥ずかしいことなのか?》と自分を見つめる余裕といったものがあったように思います。つい、前に座っている若者たちに目をやると、2人で顔を見合わせてニコニコ(いやニタニタかな?)笑っていました。その様子に、《あ、このようなことをいう人は可笑しいのだ》と、変な安心感を覚えたように思います。でも黙っているわけにもいかないので、送話口を押さえて言いました。
「しかたがないだろう、掛かってきたんだから…」
でも、くだんの男性は黙っていません。
「すぐ、そうやってごまかすんだ! 知り合いの人にそういう姿を見せられるのか! いい歳をして!」
自分の顔が引きつっているような気がしました。互いにまだ少しのやり取りをした後、電車は次の駅に着き、彼は何事もなかったように電車を降りて行きました。確かに正しいことをしていたわけでありませんでしたので、こんなにあからさまに注意されて恥ずかしい、という思いと、なんであんなふうに言われなければならないんだ、という腹立たしい思いが交錯して、しばらくは気が収まりませんでした。ですから、「こんなことがあった」というふうに話題を提供して笑いのネタにするのも嫌で、だれにもこの出来事を話すつもりはありませんでした。
黙想会のテーマは、「赦しなさい、そうすれば赦される」というイエス様のみことばでした。
「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれことがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される」(ルカ6・37)。
「赦し」について話しながら、「裁き」ということに言及していた講話で、「人を裁くな」というみことばを禁止事項のようにとらえて、裁けば罪になると受け取るよりも、他人を裁くというのは、私の知らない、決して知ることにできないその人の世界を思いやらずに、ほんの一部だけを見て自分勝手な答えを出しているのであって、そんな愚かなこと、そんな疲れることは、つまらないからやめたほうがいいよ、と理解したら、ずっと自由になるし、平和になるような気がする、といったことを話していました。その後で、「裁かれる自分」ということに思いを寄せたときに、それまで「人に話すなんてとんでもない、思い出すのも嫌だ」としていたあの電車の中のことを、思わず「この前、こんなことがありました」と話し出したのです。自分でも思いがけないことでした。
たぶん、「自分はあのとき、あの人から裁かれていたんだ」ということが分かったからだと思います。私には確認という用件があって、すぐに切るつもりで、ほかの人に迷惑にならないように小声で、という配慮をしていたのですが、あの人は、電話している男の姿(私)をひと目見だだけで、ずっと前から電話し続けている、つまらないことを話している、と判断し、それですぐ答えを出したのでしょう。
「ののしられ、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられ」(マタイ5・11)て憤懣やるかたなし、と思っていたのが、だいぶ時間がたってからでしたが、「あの人は私のほんの一部だけを見て判断しただけなんだ、裁かれるとはこういうことなんだ」と思い直したら、ずいぶん気が楽になり、人に話して笑いのネタにしてもいいと思ったのかもしれません。
しかし、裁かれる実体験をしたからといって、“だから、あなたも人を裁くな、この人には、お前の知らない世界がある”というイエス様の心を実行しているかというと、そういうことはいちいち考えないで、勝手気ままに人を見ているような気がします。
「お前の知らない世界がある!」
紙に書いて、壁にでも貼っておこうかな?
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