よもやまメール箱

派遣

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 教皇ヨハネ・パウロ二世によって、去年の10月から始められた「聖体の年」が、この10月23日の「世界宣教の日」をもって終了しました。この一年間にカトリック教会では、「ご聖体」に対する同教皇の強い信仰に励まされて、「ご聖体」について多くの黙想がなされ、その信仰をさらに深めるためにたくさんの祈りがささげられてきました。この一年間の集中的(?)な恵みを基に、ますます「ご聖体」に対する愛と信仰が深まって行くことでしょう。

 私がこの一年間に「ご聖体」について考える中で、特に自分にとって必要なテーマとして与えられたと思われたものは、「派遣」でした。教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡『主よ、一緒にお泊まりください』の第四章は、「『派遣』の根源であり計画である聖体」となっており、その冒頭で教皇様は、「エマオの二人の弟子は、主だと気づいて、彼らが見聞きしたことを報告するために、『時を移さず出発』(ルカ24・33参照)しました。仮に、わたしたちがそのからだと血を食べたり飲んだりすることによって復活したかたと実際に出会ったとすれば、その経験した喜びを自分の中だけにとどめておくことはできません。聖体において恒常的に強められ、深められたキリストとの出会いは、教会とすべてのキリスト者に、あかしと福音宣教のための緊急の招集を発令します」と述べておられます。

 「派遣」と言えば、ルカ福音書にイエス様が72人を派遣される記事があります。その中でイエス様は、その72人に対して、「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」(10・3)と恐いことをおっしゃいます。弟子たちはずいぶんビビったのではないかと思いますが、その前にルカは、「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」と書いていますから、たぶんイエス様は、「心配しなくてもいい。大事なことは、後で私が行ってするから、先に行って準備をしておきなさい」といった意味のことをおっしゃったのではなかろうか、いや、きっとおっしゃったはずです。

 「あ、準備でいいんですか?」と弟子たちが言ったかどうかは知りませんが、気が楽になり、準備のつもりで出かけて行ったところが、「72人は喜んで帰って来て」(17)報告したとあります。これが派遣であり、福音宣教なんですね。ご聖体のイエス様が共にいてくださるから、安心して、準備をしに行けばいいんだ、と考えたら、ずいぶん気が楽になるように思います。

 話は変わりますが、私は、小さいころから本を読むのが好きでした。今もそれは変わらないと思うのですが、雑誌、新聞、単行本といった編集業務で、文字を相手にするのが生業(なりわい)となってしまったような近年、仕事から離れたら、今度は自分のための読書といったエネルギーが、どうも失せてしまったような気がします。読むことだけでなく、書くこともそんなに嫌いではなく、昔は手紙もこまめに書いたものでしたが、こちらの方もすっかり不精者になってしまいました。気だけはあせるのですが、自由な時間に読んだり書いたりするのが、仕事の延長のように感じられるのかもしれません。

 そんな日々のなかで、最近は編集業務の中の主に校正部門を担当するようになってから、仕事で読んでいる原稿の内容に惹かれることがよくあります。正しい文章に整えていくのが校正の仕事なので、内容に惹かれていると、つい誤植を見落としてしまうことになります。それで、できるだけ仕事に徹しようとしているつもりですが、同じ原稿を何回か読んでいると、余裕が出てくるのか退屈してくるのか、知らないうちに内容に入り込んでしまうことがあるのです。特に良い原稿に出合ったときは嬉しくなって、出版される前からその本のファンになってしまい、役得だ、と一人ほくそ笑んだりしています。

 きょう(10月28日)、製本されて納品された『主はわれらの牧者』もそんな原稿の中の一つでした。最初に目を通した時(初校)には、あまり何も感じなかったのですが、2回目、3回目と校正を繰り返すうちに、オッ、と思う回数が増えてきて、そのうち次第に、そうだ、そうだ、なるほど、と共感を覚えるようになったのです。

 内容は、旧約聖書の「詩編23」についてのエッセイです。「主は、われらの牧者」は、カトリック信者にとってミサの答唱詩編としてなじみの深い歌ですが、この詩編23そのものについて、私自身は新約聖書ほどには関心を寄せたことはありませんでした。でもその原稿を読み進むうちに、詩編の中に含まれる深い教えに感動し、出版されるであろうその本の内容について、出版される前からあちらこちらで話さずにはいられない思いでした。

 著者は、アメリカ合衆国のベストセラー作家、聖書学者、ユダヤ教のラビである著名なハロルド・サムエル・クシュナーです。

「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
 主はわたしを青草の原に休ませ
 憩いの水のほとりに伴い
 魂を生き返らせてくださる。

 主は御名にふさわしく
   わたしを正しい道に導かれる。
 死の陰の谷を行くときも
   わたしは災いを恐れない。
 あなたがわたしと共にいてくださる。
 あなたの鞭、あなたの杖
 それがわたしを力づける。

 わたしを苦しめる者を前にしても
 あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
 わたしの頭に香油を注ぎ
 わたしの杯を溢れさせてくださる。

 命のある限り
 恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
 主の家にわたしは帰り
 生涯、そこにとどまるであろう。」

 ラビ・クシュナーがこのエッセイを書くきっかけとなったのは、2001年9月11日に起きた、あのニューヨークでの同時多発テロだったそうです。多くの人に、「神はどこにいるのか? 神は、どうしてこのようなことを起こさせたのか?」と尋ねられて、彼は「人生は公平なものではない、というのが神の約束です。人生の不公平に私たちが直面したとき、神が私たちと共にいてくださるのだから、自分独りで悩む必要はない、というのが神の約束です」と答え,そしてその答えの根拠を、詩編23の中に見いだしたと言うのです。

 約250頁にわたるこのエッセイの中心テーマは、「あなたがわたしと共にいてくださる」というものです。

 「詩編作者は、悪いことがあなたに起きるとき、それに挑戦することは、悪いことが起きたことを説明することではなく、それらを納得し、受け入れることであると私たちに言っています。さらに、それらに耐えることであり、生き続けるということです。災いを堪え忍ぶカギは、悪いことが起きたとき、神が私たちの側についていてくださるということを実感することです。病気や事故は、神の考えではありません。喪失に直面しても人生を肯定することを、悪に直面しても善を肯定することを選ぶとき、私たちは神の側につくことになるのです。神は私たちと共におられ、私たちは神と共にいて、未来は私たちをおびえさせるものではないのです」とクシュナーは言います。

 サムエル・クシュナーはユダヤ教徒ですから、キリスト教の考えとは違うところも多々あります。しかし、「共にいる神」を共有するところは全く同じです。このラビの著作に触れていて、宗派は違うけれども、同じ神を共有している実感と、その神から派遣された宣教の場における「心構え」といったものを頂いた、という思いを強くしました。

 ご聖体が、派遣の根源であり計画であることを、行いにおいて証しして行くことができるのは、特別な時、状況においてだけではありません。むしろ、自分にその支配が任されている自由な時間、状況においてであると思います。自他ともに結果が期待できそうな、大きなことに力を注ぐのは、やりがいのあることですし、それほど困難なことではありません。しかし福音書の大切なテーマの一つは、「小さなことに忠実である」ということです。報いも結果も大したことのないもの、自分の身の証し、保全にならないようなことに力を尽くすことは、力そのものはそれほど必要でないにもかかわらず、あるいは逆にそれだからこそ、それほど簡単なことではないような気がします。

 派遣された平凡な生活の場で、だれもが見過ごしてしまいそうなことや人に目を留め、足を止め、手を差し伸べることは、ご聖体の力によって実行できるし、それが宣教ということになるのではないでしょうか。『主はわれらの牧者』は、そのことに気づくヒントを与えてくれているような気がします。

 営業部から、新刊書の宣伝を頼まれたわけではありません。「本書は、聖書になじみある読者のみならず、癒しを求める多くの読者のために書かれたものです。……競争社会のストレスが高じて心の余裕を失った不機嫌な時代を生きる今日の人々が、日常の中で、ともすれば見失いがちな大切な価値観を私たちに思い起こさせてくれます。いつの時代にも変わらずに実存する悲しみや喪失(愛する人、若さ、健康、あるいは財産・地位・名誉、そして命など)に否が応でも向き合う人生の局面への慰め、癒しと勇気と希望を与えるメッセージを与えてくれます」(「訳者あとがき」)という思いに同感して、一人でも多くの人に読んでもらいたいと、紹介させていただきました。