ガリラヤ湖タイプ
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
師走に入るのを待っていたかのように、各地で12月としては記録的な寒波、積雪をもたらした冬将軍がやって来ました。「主の降誕」まで残すところあと数日というところで、今年の締めくくりの原稿を書いています。
昨年の今ごろは、検査のためではありましたが、近くの病院に入院したばかりのころで、少々不安な気持ちで過ごしていたことを思い出します。退院の後は、薬は用いずに食餌療法と運動でやってみましょう、という担当医の指示で、二か月に一度の検診で上がったり下がったりする数値に一喜一憂してきましたが、結果的には「異常なし」と言われた原因不明の胸の痛みを感じなかったら、病院に行くこともなかったでしょうし、あの時点で「重症です」と言われた糖尿病は、今ごろどこまで進行していたのかと思うと、入院できたのは「お恵みだったなあ」と毎日感謝しています。
この病気がきっかけとなったのかどうかは分かりませんが、最近、「感謝」ということが私自身の中で大きなテーマとなってきているような気がします。大げさに感じられるかもしれませんが、「こんなに大事なことにどうして今まで気付かなかったのだろう」というくらいの大きなテーマです。
「気付かなかった」というよりも、気付いていたのに、深く考えようともせず、「感謝する」ことを、何か受けたことに対する「お礼」くらいにしか理解していなかったということです。「在る」現実に対しては常に批判的な目を向け、「無い」現実に対しては常に「無いものねだり」ばかりをしていたということです。
詩編23の冒頭にあります。
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」(『典礼聖歌』では「主は、われらの牧者、わたしは乏しいことがない」)
この詩編の個所をアメリカの聖書学者で、ユダヤ教のラビであるハロルド・サムエル・クシュナーは次のように解釈します。
「主は羊飼い、わたしにはしばしば欠けるものがあります。わたしには請い求めるものがあります。わたしには、憧れるものがあります。わたしには、熱望するものがあります。わたしには、愛した人が死に、自ら身につけた技能が衰えるように、わたしの人生から連れ去られた人たちやさまざまな能力を惜しみ続けます。失われた歯を探す舌のように、わたしは人生のその空間を探し続けます。しかし、切望するものが手に入らなくても、決して奪われたとか、貶(おとし)められたと感じることはないでしょう。なぜなら、わたしが手にしているものによって、どれほど恵みにあずかれたかを知っているのですから。」(松宮克昌訳『主はわれらの牧者』P.59 サンパウロ)
クシュナーは同じ本の中で次のようにも言っております。
「感謝する気持ちを持つことに抵抗があり、『ありがとう』の言葉を口にする気になれない人たちがいます。このような人たちは、『私はだれの世話になる必要もない。自分のことは自分でできる』と言わんばかりに、自己過信しているからです。だれも必要としないことは、どれほどみじめなことでしょう(そして人を必要としないと主張することは、どれほど間違っていることでしょうか)。感謝の気持ちで贈り物を受け取ることができないことはどれほどみじめなことでしょうか。なぜなら、その人は贈り物を受け取る立場になることは、自分たちが弱く貧しい者だと思うからです。」(P.221)
これを読んでいて私は、マタイ福音書の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(11・28〜30)という個所がもっと分かったような気がします。
クシュナーの言う「感謝できない人」とは、なにかすごく傲慢なタイプの人のようです。言い換えれば、謙虚な人、柔和な人とは、どんなことにも感謝できる人、ということになります。「どんなことにも感謝できる人?」そんな人いませんよ。でも、感謝する機会が多くなるほど、以前よりももっと柔和、謙遜になれるとは言えます。そうしたら、重荷と思っていた物は軽くなり、負い難いと思っていた軛は負いやすくなるような気がします。そうしたら疲れも取れるかな? イエス様のところに行く、イエス様に学ぶ、とはこのようなことなのでしょう。
イスラエルに「死海」という湖があります。塩分が非常に濃いので魚などの生物は全く生存していないそうです。この湖の名前の由来はここにあるのでしょう。
最近、ある講話でこの「死海」にまつわる面白い話を聞きました。イスラエルには、もう一つ、「ガリラヤ湖」があります。新約聖書にも出てくるように、たくさんの命を育んでいる豊かな湖です。この湖に注ぎ込まれる水は、ヨルダン川を通って死海に注ぎ込まれるのですが、同じように他から水を注ぎ込まれながらどうして、がリラヤ湖は豊かな命を育み、一方は「死の海」と言われるような命を持たない湖になるのか、ということです。
ガリラヤ湖は、自分に注ぎ込まれた水を自分のために貯め込んでおかないで、自分以外のところに流すので、ますます豊かになります。けれども死海はヨルダン川から水を受けていながら、それを自分のために取っておいてほかに渡そうとしないので、水はそこで死んでしまうということなのだそうです。
人間にも、「ガリラヤ湖タイプ」「死海タイプ」というのがあるのでしょうか? 受けた良いものを「感謝」しながらほかの人に流していける人は「ガリラヤ湖タイプ」で、感謝できない人は「死海タイプ」?
とは言いますが、最近、死海の水には特殊な成分が含まれていて、皮膚病とか、肌の美容にとても効果があると重宝がられているそうです。生物がいなくても大切な成分を持っているのですから、名前を変えてやってもいいのではないか、と思いますがね。
「感謝は、だれかがあなたに思いやりある行為をしてくれたとき、『ありがとう』と口にするのを忘れないようにする以上のことです。それは、恩義を感じること、親切にすることという日常的な習慣以上のことです。……感謝は、生きることが贈り物であるという感覚に根差しています。感謝の本質は、あなたの努力によって生まれるものでなく、他の人からあなたに贈られるものです。」(同上P.213、214)
今年一年間に受けたさまざまなお恵みに感謝しながら、新しい年も「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。“霊”の火を消してはなりません」(1テサロニケ5・16〜19)という言葉を生きることができるよう、聖霊に祈っていきたいと思います。
皆様、どうか良い降誕節と良い年をお過ごしください。新しい年も、どうぞよろしくお願い致します。
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