よもやまメール箱

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赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 先日、ある黙想会のお手伝いの準備をしていたときのことです。「祈り」というのがその黙想会のテーマでした。聖書のみことばの中にそのテーマを捜していて、「聖書の中で最初になされた祈りって何だろう?」と考えてみました。すぐに思い浮かんできたのが、ルカ福音書の第1章に出てくる「マリアの賛歌(マニフィカト)」でした。この賛歌が「マニフィカト」と言われるのは、「わたしの魂は主をあがめ」という出だしが、ラテン語で「マニフィカト アニマ メア ドミヌム」となっているからなのですが、これは神様へのマリア様の「賛美の祈り」なのだということを、今更のように強く実感して、とても感動し、同時に、「どうしてこの祈りが、『聖母マリアへの祈り(天使祝詞)』のように、もっとたびたび唱えられないのだろう?」と不思議に思ったのです。

 「聖母マリアへの祈り」は天使のお告げとエリザベトの挨拶、そして私たち人間のお願いからなっていますが、「マリアの賛歌」はマリア様ご自身のお言葉による賛美の祈りですから、これは人間の思いから出た最高の祈りなんだ、と思ったら、涙が出てきそうになって、マリア様に「私と一緒に唱えてください」と言いながら唱えました。

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、この主のはしためにも
  目を留めてくださったからです。
今から後、いつの世の人も
  わたしを幸いな者と言うでしょう。
力ある方が、
  わたしに偉大なことを……

 と、ここまで唱えた時、「それはわたしの祈りですよ。あなたは自分の賛歌(マニフィカト)を作って唱えてごらんなさい」とマリア様が笑いながらおっしゃったような気がして、「自分のマニフィカト?」と反復しました。

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低い、このはしため、(いや、ぼくは男子だから)、このしもべ……

 とするのですが、どうしてもマリア様のパターン、マリア様の真似になってしまいます。でもよく考えたら、「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」という出だしが最も大事な賛歌で、あとは私自身のパターンにすべて置き換えても良いのだ、と思いました。

 「あまり良く祈れない」とか、「祈っているつもりだけど、本当に祈っているのだろうか?」と思うことがよくあります。そのようなときに、よく考えてみると、「祈り」というものを、せまい意味での「務め」とか「義務」と感じているときに、そのような思いに陥るのではないかという気がします。とても嬉しいことがあった、大きな恵みを頂いた、と実感するときには、「祈らなければ」と思う前に、「感謝します!」という言葉が、それこそ「思わず」口をついて出てきますし、大きな苦境に陥ったときには、思わず「助けてください!」と叫んでしまいます。そんなときに、「あまり良く祈れない」とか「祈っているんだろうか?」などとは考えません。

 私の場合、なんとなく「祈れない」と感じるのは、自分の周りのことに関して、どうも心が鈍くなっているときのような気がします。自分のことに精一杯で、自分の周りで何が起きているのか気がつかないでいるときに祈りがマンネリズムに陥り、そんな状態で祈りの「回数」と「時間」だけを消化しているのが続いて、「祈れない」と感じていたのではないかと思います。

 でも最近、祈りがとても簡単になりました。夕べが来て「わたしの魂は……」、昼間仕事中に思いついて「わたしの魂は……」、朝が来て「わたしの魂は……」とすると、祈りがとても簡単で楽しくなります。「……」の後には、きょう1日の中で起きたこと、起きるであろうこと、今起きていることを、そのとき、そのとき自由に付け加えればよいのです。

 イエス様の弟子たちがある時、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(ルカ11・1)とイエス様にお願いしたら、イエス様は、「祈るときには、こう言いなさい」とおっしゃって、私たちが今「主の祈り」として大事にしている祈りを教えてくださいました。使徒言行禄の最初に、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」(2・47)とありますから、そのようなときに人々は、使徒たちから教えられて、この「主の祈り」を唱えていたに違いありません。

 イエス様が弟子たちと一緒におられた間、彼らが祈りを唱えたという記事はありません。「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1・35)「イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた」(ルカ6・ 12)「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」(マタイ26・36)などと記されているように、イエス様ご自身は、独り静かに祈られたということが記されていますが、弟子たちに関しては「あなたがたはこのように、わずか一時(いっとき)もわたしとともに目を覚ましていられなかったのか」(マタイ26・40)と言われたくらいですから、弟子たちは「祈りを教えてください」と言ったにしては、祈りというものをまだ良く分かっていなかったということでしょう。「心は燃えても、肉体は弱い」(同41)という弟子たちへのみことばは、そのまま弟子たちへの嘆きでもあります。

 イエス様の最高の弟子であるマリア様が、その賛美の祈りをもって、最初に私たちに祈りを教えてくださいました。そしてイエス様がこの祈りを「主の祈り」によって完成させてくださいました。

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。
身分の低いこの主のはしためにも
目を留めてくださったからです。
……その御名は尊く……主を畏れる者に及びます。
……飢えた人を良い物で満たし……
憐れみをお忘れになりません。  (ルカ1・47〜54)

天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められられますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
  天におけるように地の上にも。 
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
……わたしたちの負い目を赦してください。 (マタイ6・9〜12)