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そんなつもりじゃ…

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 今から20年以上も前のことになりますが、イタリアで過ごしていたある年の夏、休暇を利用して鈍行列車を乗り継ぎ、お隣のスイスに一人で山歩きに行ったことがあります。グリンデルワルドという風光明媚なリゾート地でしたが、お金がなかったので、素泊まり一泊三千円くらいのペンションに三日間投宿し、トレッキング(山歩き)用の地図を見ながら、毎日歩いていました。山といっても、人通りの多い観光地もあれば、ほとんどひと気のない細い小道が続く所もありましたが、私は後者の方を選んで、1日10時間近く歩いていました。

 ある時、たまたま少しばかり人と行き交う所を歩いていたのですが、主にドイツ語らしい会話ばかりが聞こえていたなかで、珍しく英語が聞こえたので何となく親しみを覚えて、どこから来たのかという質問をきっかけに近寄ってみました(ちなみに、私は聞こえてくる言語がドイツ語のようだとは分かるが、意味は全く分からないし、当然のことながら全く話せない)。その声の主たちは、三人のアメリカ娘でした。

 互いに自己紹介をして、目的のケーブルカー駅まで話しながら小一時間歩いたように記憶していますが、話の内容は取りとめもないことばかりで、何も覚えていません。でもその仲良し三人娘の、スージー、アイリーン、キャサリンという名前だけは、不思議と今でも覚えています。

 その辺りから自分の泊まっていたペンションまで歩くのは、既に十分に歩いた後だったので疲れていたのか、歩ける距離ではなかったのか覚えていませんが、そこから彼女たちと一緒のケーブルカーに乗ることにして切符を買いました。彼女たちは既に通しの切符を持っていましたが、どういうわけか、その中の一人スージーの切符だけが、そのケーブルカーのためのものではなく、ほかの路線のものだということが分かったのです。駅員とすったもんだの末、彼女はあきらめて切符を買い直したようでした。

 乗った電車のたまたま私の横にそのスージーが座ったのですが、しょげかえっている様子の彼女の顔を見るともなく見て、ちょっとビックリしてしまいました。スージーは、もう使えなくなったその切符をじっと見つめて、目に涙をいっぱい浮かべていたのです。3ドルか5ドルくらいのものでしたが、よほど口惜しかったのでしょうなあ。涙に弱い私はホトケごころ(神父なのに)を起こし、ついウソをついてしまったのです。「僕、明日もここにいるし、明日使うから、その切符、僕に売ってよ」って。明日までそこにいるのは本当でしたが、ケーブルカーに乗る予定なんか全然ありゃしませんでした。

 これもよく覚えていないのですが、《いいわよ》と気安く言って売ってくれると思った私の予感に反して、スージーはその時、すごく嬉しそうにほほ笑んで涙を拭きながら、「ほんとうに?」って言ったと思います。ところが、私が「うん」と言ったそのあと彼女が言ったのは、さらに予感に反し、言うに事欠いて、「Oh, You are like Christ ! (あなたって、キリストみたい!)」でした。3ドルか5ドルの話ですから、それで「キリストみたい」と言ってもそれほどの意味はなく、そう言われて喜ぶほど私はおめでたい人間ではありませんが、今でもよく覚えているのは、大袈裟なその表現もさることながら、《そんなに嬉しかったのか?》と思わせたその反応でした。

 こんなこと言われたことがある、という話がしたくて前置きの話を引っ張ってきたわけで、どうもすみません。他愛もないことなのですが、この前、ある黙想会で、「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか」(マタイ25・37)というくだりに触れていたとき、ふとこの話を思い出したのです。

 もしあのとき、スージーが私に「キリストみたい!」とさえ言わなかったら、使う予定もない切符を彼女から買ったことなど、すっかり忘れていたと思うのですが、あんなこと言われたばかりに、自分のやったことをいつまでも覚えていて、なんかちょっと恥ずかしいな、という気がしているのです。あんなことさえ言われなかったら、「え、いつそんなことしました?」という話になったのに、ちょっと惜しかったなあ。

 福音書の中の「いつ、そんなことしましたか?」という問いに、王は、実は、というわけで、「わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(同上40)とタネ明かしをします。このタネ明かしの個所を読んで多くの人は、「この兄弟にすることは、キリストにすることなのだ」と思って、いわゆる「隣人愛」を実行していると思うのかもしれません。でもこの話のポイントは、キリストに認めてもらうためにしっかり意識して行った覚えている「善行」ではなくて、「隣人愛」のつもりも「善行」「善業」のつもりもない、兄弟姉妹への単純な「痛み」への共感から来る行為、「え、いつそんなことしました?」と自分でもやったことを忘れてしまったくらいの無意識の、思わず手を差し伸べてしまった、というような行為にあると思います。

 こっちは「そんなつもりじゃなかった」のに、あっちからは「キリストみたい」「ホトケの顔に見える」くらいに喜ばれた、というようなことを、私たちは意外とやっているのかもしれませんね。与える側の物の種類とか態度の如何にかかわらず、受ける側にとっては、大きな喜びとなることは必ずあると思います。
後にも先にも、「キリストみたい」と言われたのは、あのとき以外にないのはもちろんです。「そんなつもり」のこともやってきましたけど、「いつ、そんなことしました?」という種類のこともきっとやっているに違いないと、自分を励ますほかありません。

 皆様、どうか素晴らしいご復活祭をお迎えくださいますように!!!