よもやまメール箱

身から出たサビ

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 ヨハネ福音書3章の16節から21節のなかでイエス様は、「裁き」ということについて、「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではない」「信じない者は既に裁かれている」「人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている」とおっしゃいます。この個所を読むと、神が悪いことをする者を裁くというよりも、悪いことをする者は自分で自分を裁くことになるのだ、と言われているようです。悪いことをする者は、その悪いことが発覚するのをおそれて、ビクビクしながら闇の中を歩くように生きていくのでしょう。その結果、神がその人を後でお裁きになるというよりも、その生き方自体が、「既に裁きになっている」というのですね。この世で自らの裁きの結果を背負いながら、自由も喜びも感じることなく、苦しく耐え難い人生を送らなければならなくなるということです。

 人間は本来、そのような存在として造られているはずはありません。ユダヤ教のラビで、聖書学者のハロルド・サムエル・クシュナーはその著「主はわれらの牧者」(松宮克昌訳 サンパウロ刊 2005年)の「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」(詩編23・4)で次のように述べています。

 「私は、ある種の行動をすることで魂に栄養を与えることになり、別の行動をとることで体に害を与えると同様に魂にも害を与えると信じています。人間は正直で役に立つように神に造られています。私たちは、あえて人に役に立つように行動すると満足を覚えるように、そのような行動をとると、好ましい気持になるように造られています。私たちは嘘をついたり、ごまかしたり、あるいは自分本位の行動をとったりするとき、食べ過ぎや、飲み過ぎの直後に感じるような本当の自分とはかけ離れた気分になります。正しく生きてみてください。そうすれば神の杖によって支えられます。間違った生き方をしてみてください。そうすれば、神の鞭の衝撃を感じることでしょう。」(172ページ)

 ここで言う「神の鞭の衝撃」とは、神の裁きとか罰ということではありません。「悪事を働いた人間を懲らしめるために神が積極的に介入することを信じる必要を私は感じません。私には、罰せられることよりもむしろ、悪事が自ら招く結果を信じることで十分です。悪い行い自体が、天罰の種を運びます。喫煙者は肺がんにかかり、飲酒運転者は事故を引き起こし、性の奴隷は決して真の愛の満足感を知りえません。神の怒りが彼らに下ったからではなく、彼らの行いが神の世界の秩序に挑戦したからです。」(同170ページ)

 人間の世界での裁きというのは、人が犯した罪の重さに応じて、その償いを果たさせるために下す判決を意味しますが、私たちは神の裁きもこの人間の世界の裁きと同じように考えます。聖書にも、人が犯した罪の重さに応じて、後の世でその判決が下されるというように述べられています。「もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである」(マタイ5・29)はそのことを意味していますし、「金持ちとラザロ」のたとえ話(ルカ16・18以下)や、「すべての民族を裁く」たとえ話(マタイ25・31以下)などもそのことを言っています。
 
 でも上記のヨハネ福音書を読むと、裁きはそれだけではない、既にこの世で行われている、ということになります。しかも、悪事を働く者は、ほかでもなく自分自身によって裁きを受けているというのです。よくよく自分のことを考えてみたら、自分の中にあるこの重い気分、この嫌な思い、このやりきれなさは、どれもほかの人から与えられたものではなく、自分の行いの結果なのだなあ、と思えてきました。要するに「自業自得」ということですなあ。「身から出たサビ」というやつです。ラビ・クシュナーも同じことを言っています。

 「善人はつまずき倒れますが、忠実な羊飼いである神は、彼らを回復させる手助けをするためにそこにおられます。悪い人間、誘惑に負ける一部の善人は軽はずみに柄にもないことをし、人を傷つけます。しかし、遅かれ早かれそのツケが回ります。小賢しい嘘つきは、だれからも信用されなくなります。密通者は、行きずりのセックスを選ぶことで真の愛を永久につかめません。凶悪な犯罪者がたとえ刑務所行きを免れたにせよ、本来の彼と同じくらい凶悪な犯罪者と同様の絶え間ない恐れの中に生きることになります。」(同上180ページ)

 先日、“こういうのを「身から出たサビ」と言うのではないでしょうか?”という話をしていて、ふと思い出したことがあります。

 東京にある聖パウロ修道会の若葉修道院は今、改築工事中で、今秋には落成が予定されています。かつての若葉修道院は本館と呼ばれていた古い建物と、それよりも後に建てられたので新館と呼ばれていましたが、これも古い二棟の建物から成っていました。私は本館のほうに住んでいたのですが、ある時、新館洗面所のトイレの水洗器が壊れて、ずいぶん長い間「故障中」という紙が張られ、使えない状態で放置されていたことがありました。

 ある夏の暑い盛りだったと記憶しています。たまたま夏休みを利用してブラザーである叔父を修道院に訪ねて来ていた少年と相談して、その水洗器を修理してみようということになりました。

 そのようなものを修理した経験など全くなかったのですが、直らなくてもダメモトだ、なんて二人で笑いながら、故障の原因と思われていた部品を買ってきて、まずタンクの中の部品を解体していきました。そんなに複雑な構造ではありませんでしたが、元通りに組み立てられなかったら、ダメモトどころではありませんので、そのことだけに細心の注意を払っていました。

 部品を一つひとつ解体していくうちに解明した「故障」の原因は、水が満タンになったときに止める働きをする浮き袋の元の金具が錆びついて、満タンになっても浮き袋が浮いてこずに水が溢れる、ということでした。冷房もない所での作業でしたので、ボタボタ落ちてくる汗を拭いながら、「あっ、ここだ!」と叫び、銅製のその部品をヤスリでしっかり磨いて慎重に組み立て直し、試運転をして満タンになった水が「シュ—ッ」と止まったときは、「ヤッタァ!」と二人で快哉を上げながら握手したものでした。

 私の心ももっと良く機能するように「身から出たサビ」を落とさなければと思っています。自分で自分を裁いて「闇の中」を歩いてたんじゃ、はじまりませんからね。