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与えることは受けること

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 今、私が住まいとしているところは仮の宿で、半年後には別のところに引っ越すことになっています。ここに来たのは昨年の初めでしたが、仮の宿ということで、本などの入ったダンボールは開けずにそのままにしています。それで時々必要な本を出すのに幾つもの箱を調べなければならないということになります。どの箱に目当ての本があるのか分からなくて、その度に汗だくになってしまうのですが、どこに仕舞い込んだのか分からなくて諦めてしまっていたものに出合って、嬉しくなることもよくあります。

 5月の終わりごろにも、一冊の小さな本を捜して幾つもの箱を引っ掻き回しては元に収める作業(?)をしていたのですが、その本を見つけ出す前に、一冊の本のタイトルを見て、≪こんな本、買ったことあったなあ≫と思い、買ったきり一度も読んだことのなかったその本を、その直後に予定していた外国旅行の、長時間の飛行機の中で読もうと箱から抜き出しておきました。その本のタイトルは『愛するということ』(エーリッヒ・フロム著 鈴木晶訳 紀伊国屋書店刊 1995年)でした。

 ソウルからローマまでの大韓航空の機内で読み始めたその本の中で、最近自分がテーマにしていたような著者の考えに出合って大いに共感し、感動したのですが、そのうち眠くなって閉じてしまい、半分くらいしか進みませんでした。その後、ローマ郊外のフィウジという保養地のホテルに投宿し、超過密スケジュールに振り回されているうちに、その本のことは忘れていたのですが、三日後の早朝、本のこと、それも自分が共感した個所のことを思い出して、起床には早過ぎる時間だったにもかかわらず、寝ぼけまなこで本を引っ張り出し、その個所に赤のボールペンで傍線を引き、安心してまた寝ました。

 赤い傍線を引いたのは以下の文章です。

 「愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。その中に『落ちる』ものではなく、『みずから踏みこむ』ものである。愛の能動的な性格をわかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではないと言うことができよう(略)いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを『あきらめる』こと、剥ぎ取られること、犠牲にすること、という思い込みである。性格が、受け取り、利用し、貯めこむといったといった段階から抜け出していない人は、与えるという行為をそんなふうに受けとめている」(42〜43ページ)。

 「与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなくひときわ人間的な領域にある。では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのだろうか。自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ。これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない。そうではなくて、自分の中に息づいているものを与えるということである。自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分の中に息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ。

 このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める。もらうために与えるのではない。与えること自体がこのうえない喜びなのだ。だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分にはね返ってくる。ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受け取ることになるのだ。与えるということは、他人をも与える者にするということであり、たがいに相手のなかに芽ばえさせたものから得る喜びを分かち合うのである。与えるという行為のなかで何かが生まれ、与えた者も与えられた者も、たがいのために生まれた生命に感謝するのだ。とくに愛に限っていえば、こういうことになる──愛とは愛を生む力であり、愛せないということは愛を生むことができないということである。

 (略)しかし、与えることがすなわち与えられることだというのは、別に愛に限った話ではない。教師は生徒に教えられ、俳優は観客から刺激され、精神分析医は患者によって癒される。ただしそれは、たがいに相手をたんなる対象として扱うことなく、純粋かつ生産的に関わりあったときにしか起きない」(45〜 47ページ)。

 著者のエーリッヒ・フロム(1900〜1980)は米国に帰化したユダヤ人の精神分析医で、その曽祖父も祖父もユダヤ教のラビという家庭に生まれた熱心なユダヤ教徒です。ですから彼の愛についての考えには、とても聖書的なものが感じられます。彼の言う「与える」という愛は、キリストが説いてくださった究極的な愛、「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15・13)という教えに深く通じるものがあります。

 私がこの著者の言葉に共感し、感動したというのは、自分の生活の中で、それほど大袈裟なことではないのですが、自発的に与えるという行為の結果として、思いもかけなかったものを受け取るということを体験していたからです。

 司祭にとってキリストのことばを伝えるというのは、自分の生き方とか生活態度における証しにおいて、またミサでのホミリア(説教)や黙想の講話といった形での務めにおいて果たされていくものです。前者のことは、個人の内面的な務めにかかわるものですが、後者のことは、外面的な務めにかかわるもので、時々手を抜くとか、必要最低限のことにとどめておきく、といった誘惑に陥ることがあります。でも、つい後退してしまいそうな自分の気持ちに鞭打って前に進んだ時、思いもかけなかったような照らしをみことばから頂いて感動することがあります。

 修道会が経営する病院で働いておられる一人のシスターから、最近とても嬉しいお話を聞かせて頂きました。その病院では、患者さんのために時々有志の看護師さんたちのコーラスをサービスなさるそうです。そのシスターもメンバーのお一人だそうですが、あるとき、高齢の女性患者さんのなかにとても歌の好きな人がいらっしゃることを知って、コーラスの後でその人のところに行き、“○○さん、この次は、あなたのために私が歌ってさしあげますね”と約束なさったそうです。ところがその後忙しくて、気になりつつもその約束が果たせないまま、何日もたってしまったそうなのですが、ある朝、ミサが終わった後、≪そうだ、今行ってこよう≫と思い立ち、朝食までの時間を使って病室に行かれたそうです。

 いつもは仕事用の白衣姿のシスターが、そのときは修道服を着ておられたのに一瞬驚かれた様子だったそうですが、 “お約束を果たしに来ましたよ”と言って、シスターがマリア様の歌を歌っていたあいだ、その患者さんは大きく目を見開いたまま、ほとんど瞬きもしないでシスターのお顔をじっと見つめておられ、シスターが歌い終わると、とても嬉しそうに“どうもありがとう”と感謝されたそうです。少しうつ病の傾向のあるその方は、それまであまりご自分のことをお話しになることはなかったそうですが、その歌のことがあって以来、ご自分の娘くらいの年齢のそのシスターのことを「おばちゃん」と称し、“あのおばちゃん呼んできて”と指名しては、いろいろと話をするようになったということです。

 何の気なしに、≪今、行こう≫と思って、わずか15分かそこらの時間を使っただけのことなのに、その患者さんにしてみれば、朝のこんな時間にきてくれたということがよほど嬉しくて、心が打ち解けたのでしょう。でも、そのシスターの話を聞いていた私たち数人の者は、シスターの方がよほど嬉しそうだ、という印象を受けました。シスターはご自分がその患者さんに何かを「与えた」とうい思いは全くなかっただけに、その患者さんから頂いたものが大きかったことに喜色満面の笑顔でした。

 シスターのお話の後に、前述の本のことを思い出し、その場で私の記憶のなかの数行を紹介したのですが、私自身心の中で≪「与えることは受けること」って、こういいうことなんだなあ≫と納得した次第です。