よもやまメール箱

「今」という時

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 昨年の8月に私の弟の初孫が誕生しました。女の子で「優衣(ゆい)」と命名され、11月に洗礼の恵みを頂きました。日曜日のミサの中での洗礼式で私が司式をして、説教の中で、「私の弟の初孫ですが、私にとっても孫のような気がします」と話したら、皆さん、笑っておられましたが、ミサの後で早速、私は家族の者から「東京のじいじ(じじいではない)」と命名されてしまいました。

 私は7人兄弟の長男として、弟たちの小さいころの世話をさせられていましたので、子供は大好きで、その扱い方も少しは心得ているつもりですが、「孫」の優衣にはたまにしか会うことができないので、「東京のじいじ」の存在を覚えてもらえなくて、今のところは、まだ一方通行といった感じです。でも極端な人見知りの時期は超えたようなので、覚えてもらえるのも時間の問題かなとひそかに期待しています。

 関西方面に用事があるときに、時間を取ってちょっと会いに行くという程度ですが、めったに会えないだけに、たまに見るその成長ぶりの早さに感動しています。最近は私が抱っこしても、一時期のように拒絶反応を示さなくなったということだけでも、「じいじ」にとっては小さな喜びです。

 その優衣の可愛い写真をたまに見ては、一人でニコニコとじじバカになっているのですが、最近、ミサの中でふと、優衣のことを思い出してしまい、じじバカもここまで来たか、と少し反省しております。

 ミサの中、というのは、説教中のことです。その日はマタイ福音書11章25節から27節までが朗読されました。その冒頭に、「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。あなたはこれらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」とあります。

 「知恵」とか「賢さ」というのは、世の中を渡って行くために大切な要素です。社会的価値観の中でも、頭脳明晰というのは上位を占めるものです。記憶力、理解力、判断力、分析力、表現力などに優れていて、それを十分に発揮できる人は、どこの社会でも重宝され、尊敬され、羨ましがられ、そして良い地位につくことができます。でも、信仰はこうした社会的価値の豊かさにあるのではない、というのがこの福音書のイエス様の教えです。

 7月9日(日)の福音書は、「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(マルコ6・2‐3)から始まって、「人々の不信仰に驚かれた」という言葉で締めくくられています。人々は自分たちの社会的な価値観に基づいてイエスを判断しようとした、そのことをマルコは、イエス様を驚かせるほどの「不信仰」だと結論づけています。

 その翌日、10日(月)のミサのマタイ福音書は、「12年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』と思ったからである。イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った』」(9・20‐22)という個所でした。ルカ福音書は同じ奇跡の話の中でイエス様が、「わたしから力が出て行ったのを感じた」と言われたと記しています。これはイエス様を驚かせるほどの「信仰」だったのではないでしょうか。この女の人の信仰は、イエス様のご意思とは関係なく、イエス様から力を引き出すほどのものだったのです。

 12年間病に苦しんでいたこの女にとって、イエス様の服に触れることができるのは「今しかない!」という切羽詰った思いだったのではないでしょうか。

 イエス様は、「わたしの父は今もなお働いておられる。だからわたしも働くのだ」(ヨハネ5・17)と言われます。これは、38年間病気で苦しんでいた人を癒されたのが安息日だったために、そのことをユダヤ人から迫害された時の、彼らに対するイエス様の答えです。38年間病に苦しんできた人を、その苦しみから解放することができるのは「今しかない!」、御父と同じようにご自分も「今働く」というイエス様の思いがそこに見えます。38年間の苦しみを「今日は安息日だから、明日癒してあげよう」ではなく、「今癒してあげよう」ということで、その人に真の「安息日」をもたらされたのです。

 「これらのことを、幼子のような者にお示しになりました」と言われます。しかも、ルカ福音書によれば、「イエスは聖霊によって喜びにあふれて」(ルカ10・31)このように言われたとあります。幼子のようになるとは、それほど大事なことなのです。

 幼子のような、ということを考えていて、ふと優衣のことを思い出しました。1歳未満の彼女の思いの中には、過去も未来も全くない。あるのは今だけ。「今しかない!」ということです。過去と未来は親に任せて、今、しなければならないことを、単純に果たしているだけです。

 「知恵」とか「賢さ」といった社会的価値観に基づいて、いたずらに過去と未来に思いを巡らせていたら、自分にはある、と思っていた信仰が、実はそれは、イエス様も驚かれるほどの「不信仰」だったということになりかねません。「イエス様しかいない!」「今しかない!」という思いに基づいた行動は、イエス様から力を引き出す「信仰」となりました。単純に、幼子のように「今」という時を「恵みの時」と受け止めて行動することは、私たちに福音的価値観に基づいた生き方をさせることになり、ひいては私たちを、イエス様が喜びにあふれるほどの「信仰」に導くことになるのではないでしょうか。