3つのパンの話
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(マタイ7・7‐11)。山上の垂訓の中にある、祈りについてのイエス様の勧めです。あまりも有名なみことばなので、キリスト教以外の世界でも知られているのではないかと思います。だから逆に、私たちキリスト教信者が聖書の中で目にしても、このみことばは私たちにあまり注意も喚起しないし、感動も呼び起こさないのではないでしょうか。
私も、「求めよ、さらば与えられん」とイエス様から言われて、欲しいものは山のようにあっても、その中の何を求めていいのか、何を探したらいいのか、どこをたたけばいいのか、はっきりと自覚したことは、この歳になるまで一度もありませんでした。しかも上記の引用文の直後の12節にある「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」の「だから」の意味が分からず、誤訳ではないのか、とさえ思っていたくらいでした。
「だから」という接続詞は、前の文を引き継ぐものですから、本来ならば、「だから、良い物をいただけるように、一生懸命に祈りなさい」とくるような気がするのですが、「だから、人にしてもらいたいことを、人にもしなさい」とくるのでは、前の文の意味を引き継いでいないと思ったのです。同じ意味のことが記されているルカ福音書の中に、何かカギがないかと思って11章を開いたら、「だから」に代わるみことばはなかったのですが、その前の部分に一つの小さなたとえ話がありました。
「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを3つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう」(5‐8)。
この後に、ルカ福音書でも、「求めなさい…」とマタイと同じようなことが記されています。その後に「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」というマタイ福音書のみことばが来るならば、それだったら、「だから」の意味が理解できる、と納得しました。それと同時に、それまで「求めなさい…」というのは、自分のために、とばかり思っていたのが、そうではなくて、ほかの人のために「求めてあげなさい」だったのか、ということにも気づかされました。自分のために求めるのであれば、「友よ、わたしにパンを3つ貸してください。わたしはしばらく何も食べていないのです」でもいいはずですが、イエス様は、このたとえ話に、「友達に出すものが何もないので、彼のためにパンを貸してください」と、友のために頼む人を登場させています。
しばらくは、新しいことを「発見」したような喜びで、ほかの人のために祈っていたのですが、そのうちあまり祈らなくなっていました。最近、ある黙想会でこの箇所を取り上げて話をしていたとき、≪このたとえ話の主人公は、自分のためではなく、友のためにパンを貸してくれるようにと頼んでいるが、私たちも友のためにパンを貸してくださいと主に祈ろう≫と言ってる自分に気がつきました。それまでは、「あの人に力を与えてください」「あの人を助けてあげてください」と漠然と「友のために」祈って、それ以上のことはしなかったのですが、そのとき、「あの人に」「この共同体に」尽くす力を私に与えてください、と祈るんだ、ということに気づいてびっくりしました。≪「あの人のために」「この共同体のために」私にパンを3つ貸してください≫というのが、この「求めなさい」「探しなさい」「門をたたきなさい」の意味でもあるのか、と思ったら、自分で言うのも変ですが、「目からウロコ」でしたよ。
ある共同体のためにしなければならないことがあって、ずいぶん長いこと悩んでいました。つい最近、いよいよ決行の時が来て、胃が痛くなり、夜も眠れないくらいの状態の中で、必死になって聖霊の助けを祈りました。その祈りの中心は、「主よ、パンを3つ貸してください。私には彼らにあげるものが何もないのです」でした。事前には、5千人を前にしたフィリポやアンデレの心境(ヨハネ6章)でしたが、人々を座らせただけの私に、主は3つどころか、その共同体全員が満足するだけのパンをくださいました。アレルヤ!
ルカはこの箇所の最後を、「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(7・13)というみことばで結んでいます。この変な日本語には大いに異議を申し立てたい。私は勝手にこんなふうに読んでいます。
「ましてや天の父が、求める者に聖霊を与えてくださらないはずがない!」
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