本音と建前
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
「ユダヤ人の過越祭が近づいていたので、イエスはエルサレムに上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない』」(ヨハネ2・13—16)。
この箇所を読むたびに私は、ずいぶん昔に観たアメリカの、聖書を題材にした「ジーザス・クライスト・スーパースター」というミュージカル映画で、イエス様役の俳優が大声を張り上げながら「出て行け!」と、激しい口調で商人たちを神殿の境内から追い出しているシーンを思い出します。それまでその箇所を読んでいても、聖書だから、イエスさまだから、と先入観(?)で文字だけを追っていたような気がするのですが、それ以後、イエス様って、意外と気性の激しい人だったのかな、思うようになりました。
そんなふうに聖書を読むようになったら、他の箇所も少し気になりだしました。例えば、マタイ福音書の23章には、「律法学者とファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ」というイエス様の辛らつな言葉が6回も出てきます。歯に衣を着せぬ言いまわしで、ファリサイ人や律法学者たちの言動を厳しく追及されるイエス様って、意外と口の悪い人だったのかな、と思ったりします。
かと思うと、ルカ福音書には、「イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子を呼び寄せて言われた。『子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである』」(18・15 —16)と書いてあります。乳飲み子を呼び寄せられたイエス様はこのとき、きっと目尻を下げて子供を抱きかかえ、頬ずりされただろうなあと思います。
また、他人のうわさを引用して、ご自分のことを「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だと言う』」(ルカ7・34)というふうに言われます。他人の言葉ではありますが、実際のことだったのでしょう。イエス様も洗礼者ヨハネのように厳しい生活ばかりでなく、ときには、みんなと愉快にお過ごしになったこともあったということだと思います。
聖書の中にはその他にも、イエス様の感情を思わせるような箇所が幾つか出てきますが、イエス様って、意外とご自分の喜怒哀楽をストレートに表されたんだなと思うようになりました。自分勝手にイエス像を歪曲して作り上げるのは慎まなければなりませんが、聖書の文字だけでなく、イエス様の温もり、イエス様の息遣い、眼差しといったものを聖書の記事の中に読み取るようにしないと、聖書が「福音」にならないような気がします。
そんなイエス様が、「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛(くびき)を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ11・29)と仰います。
私たちが普通、柔和という言葉を聞くとき、まず思い浮かべるのは、どのような人のことでしょうか。いつも穏やかで、決して荒っぽいものの言い方をせず、口数も少なく、にこやかな人、というイメ‐ジではないでしょうか。また、謙遜という言葉を聞くときも、同じように物静かで、決して自分のことを自慢したりしない人、他人のことを面と向かって悪しざまに言わない人、というような人を思い浮かべます。
先に引用した聖書の記事を読むと、イエス様のイメージを思い浮かべようとするときに、「柔和な人」、「謙虚な人」というのがどうもぴったりきません。イエス様の仰る「柔和」とか「謙遜」というのは、日本語の文字通りのイメージではなく、別のことであるように思います。
ファリサイ人や律法学者たちが大切にしていた「安息日」に、イエス様が、人々の病気を治されたという話は、聖書の中に何回も出てきます。そのたびにイエス様は、律法を無視するような罪を犯したとして、律法の専門家たちから非難攻撃され、彼らが「どのようにしてイエスを殺そうかと相談した」(マタイ 12・14)というくらいの反感を買いました。イエス様は決して、その日が安息日であるということを、忘れておられたのでも、無視されたのでもありません。いつもは律法に忠実に掟を守っておられました。ただ例外がありました。それは、安息日であっても、ご自分の目の前に病人がいるときには、掟を守ることよりも病人の苦しみと悲しみに共感を覚えられ、ご自分が非難攻撃と迫害を受けること、それだけでなく、命さえ危険にさらされることが十分に予測される場合であっても、ご自分を守るために律法を守るよりも、その病人に真の安息日を与えることを優先されたということです。これこそ、イエス様が仰る柔和、謙遜ということではないでしょうか。目の前にいる弱っている人、遠くで苦しんでいる人に対する心からの共感と助けの手、これが姿、かたちだけの柔和ではなく、心柔和で謙遜ということだと思います。
穏やかな顔、にこやかな笑顔、柔らかい物腰、優しい言葉遣い、人前で自分のことを決して自慢しない人も、人の見ていないところでは全く逆の態度を見せることがあります。逆に、起こりっぽくて、がさつで、口が悪く、下品で、自慢ばかりして、鼻つまみにされるような人が、弱っている人を見て黙っていられないということもあるようです。いつも本音で生きている人だと思います。
イエス様もそんな人だったのかな、と最近思うようになりました。そのように思うのは、自分の、短気で、下品な部分に妥協する下心でもある気がしないでもないのですが、これはもう直しようがないので諦めて本音で生きることにして、別のところに力を入れたほうが良さそうだなと思っています。
つまり、イエス様にならって、他人の弱さや苦しみに共感できるような、心柔和で謙遜な者になる、ということです。この本音で生きられたら、「安らぎを得られる」のでしょうね。こっちのほうがもっと難しかったりして。
そう言えば、イエス様って、建前の全くない人、本音だけで生きた人だったんですね。
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