油断大敵
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
だれが言った言葉か知りませんが、ずいぶん以前に読んだ雑誌のインタビュー記事の中で、ちょっと気に入った言い回しがあって紙切れに書きとめておいたものが、最近、偶然開いた本の中から出てきました。
事、いまだ成らず、小心翼々
事、まさに成らんとす、大胆不敵
事、すでに成る、油断大敵
何か大事を始めようとするときには、準備おさおさ怠りなく、細心の注意をもって慎重でなければならない、ということを「小心翼々」とし、機が熟したときには優柔不断をかなぐり捨てて、思いきり踏み出すことを「大胆不敵」、大願成就の後は、心のおごりに注意し、更に慎重に事に当たることを「油断大敵」としているのでしょう。その意味では、「小心翼々」「大胆不敵」「油断大敵」のいずれも大切な要素ですが、大事を始めようという場合でなくても、いつも気をつけていなければならないのは、「油断大敵」でなないでしょうか。
「油断」というのは、文字通り「油」がなくなるという意味です。昔の話で、行灯(あんどん)など、明かり用灯油の準備を怠ると、夜中に不測の事態が生じたときに命を落とすことにもなりかねないという教訓を「油断してはならない」としたのだと思います。一説には「ゆっくり」とか「のんびり」というのを古語で「寛(ゆた)に」と言いますが、それがなまって「ゆだん」になったともいわれます。
上記のような説がいつごろからのものか、詳細のほどは定かでありませんが、実は二千年も前に書かれた本の中にこの「油断」という言葉の起源がある、という説もある(?)のではないか、と私は勝手に思っています。その本というのは「聖書」です、と言えば、聖書をよく知っている人は、ああ、あれか、とすぐ分かると思います。聖書を全く知らない人は、まさか、と言うでしょうね。それはマタイ福音書に出てくる「十人のおとめのたとえ」話です。
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壷に油を入れて持っていた。ところが、花婿の来るのが遅れたので皆眠気がさして眠り込んでしまった。真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意の出来ている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後でほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と言った。だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(25・1‐13)
このたとえ話の教訓は、「目を覚ましていなさい」となっていますが、「皆、眠気がさして眠り込んでしまった」とあります。賢いおとめたちも、愚かなおとめたちと同じように、眠り込んでしまったわけです。眠り込んだ失態は演じてしまいましたが、賢いおとめたちと言われる理由は、眠り込んでしまうこともあろうかと、別に油を用意していたということです。愚かなおとめたちと言われる理由は、眠り込んでしまうなんて考えもしなかった、ということです。ですからこのたとえ話の「隠れ」教訓は、「油断大敵」ということですよ。
一言「油断大敵」と言われても、この警告はさまざまなことに当てはめられますが、だからこそ、ついうっかり油断してしまうことになります。このたとえ話の中でイエス様が用いられる「眠り込んでしまった」とか、賢いおとめたちが用意していた「油」というのは何なのでしょうか。
私たちは何か事を成そうとするときは、「小心翼々」と準備に精を出して頑張らねばなりません。疲れることですけれども、「大胆不適」に踏み出して、運良く大願成就すれば、それまでの苦労も消し飛んでしまいます。しかしそんなにうまく行かないことのほうが多く、肉体的にも精神的にも疲れて、その結果、ついつい眠り込んでしまうということになります。「疲れた!」と感じること自体が「眠り」なのかもしれません。この眠りから、フッと目が覚めたときにそこに「油」があったら、新たな歩みが始められると思うのですが………。
「わたしは、あなたがたといたとき、これらのことを話した。しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14・26)とイエス様は言われます。「十人のおとめのたとえ」の中で言われている「油」とは、聖霊のことだと思います。人間的な努力の中だけでどんなに「信心」に頑張っても、その結果として自分には信仰があると思っていても、聖霊という「油」を携えていなかったら、イザというときに道を誤ってしまうことになります。この油によって灯される光が、キリストの言葉です。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」(ヨハネ15・7)。
眠いと感じることはあっても、また、眠ってしまったと気づくことはあっても、眠っている自分のことに気づく人はだれもいません。ほんの一瞬の居眠りだったと思うのは、本人だけで、実は変な格好をして30分も眠り込んでいた、ということはよくあることです。ほかの人に見られて、ちょっと恥ずかしい思いをすることもあります。
賢いおとめたちも、皆眠気がさして眠り込んだのですから、眠り込むこと自体は自然なことです。目が覚めたときが問題です。「油断」しないように、いつも油を携えていたいものです。
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