祖母の十字架
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
明治36年、1903年、卯(う)年の生まれといえば、今年103歳になります。私の年齢ではありません。12月29日が来れば103歳になるはずだった私の祖母、フィロメナ・古賀フミの年齢です。祖母は誕生日の約一か月前の11月25日に、百二年と十一か月の天寿を全うして静かに帰天しました。祖母は晩年になって幾度となく、周囲に、もうだめか、と思わせながらも、不死鳥のように持ち直していましたので、130歳くらいまで生きるのではないかと思っておりましたが、以外と早く(!)神様のところに帰って行ってしまいました。祖母は体が丈夫なだけでなく、肝っ玉の据わった、篤い信仰の人でしたので、その祖母の長女の長男である私は、祖母の初孫であるということを秘かに自慢していたのですが、これで私の唯一の自慢のタネ(?)がなくなってしまいました。
祖母とは一緒に生活したことがありませんでしたので、私の記憶の中に祖母語録のようなものはないのですが、数年前、入院先の長崎の病院に祖母を訪ねたときの一言は、不思議と私の心の中に強く刻みつけられています。4人の共同の病室にいた祖母は、とりとめもない雑談の中で突然、大きな声で、「わたしゃ、いつも、お祈りばしよりますと!」と言って、「天にましますわれらの父よ……」と祈り始めたのです。ちょっとびっくりしましたが、思わず苦笑しながらも、さすが僕のばあちゃん、と感動しました。そのときの光景は今でも鮮明に思い出として残っています。
102歳での大往生ですから、なにも思い残すことなく去って行ったのではないかと思いますが、戦前、戦中、戦後の混乱の時期に、8人の子供を女手一つで育てたその苦労は並大抵のものではなかったことを、その死後になって一部知ることができました。10代のはじめに両親に連れられてブラジルに渡った祖母は、現地で結婚して3人の子供をもうけ、1929年(昭和4年)に帰国し、その9年後に8人目の子供を産んだ直後に、祖父の事故死で突然寡婦になってしまったのです。祖母が36歳の時でした。葬儀ミサを司式しながら、それからの祖母の人生は十字架の人生だったんだなあ、とあらためて考えさせられました。
十字架という言葉を聞くときに、人が想像するイメージというのは、まず「苦しみ」ということでしょう。十字架は元来、死刑の道具でした。イエス様も死刑の道具を背負ってカルワリオの丘への道行をなさいますが、それが死刑の道具だったのは、その十字架上で御命を御父におささげになるまででした。しかし、十字架上での贖罪の御業を成し遂げられた時から、その十字架は、キリストを主と慕い、崇める者にとって、もはや死刑の道具ではなく、救いのシンボル、喜びのシンボルに変わったのです。
そのイエス様が、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(マタイ10・38)と言われる十字架も、当然のことながら、決して「私を死刑にする道具」「私を苦しめる拷問の道具」としての十字架ではなく、喜びのシンボルである十字架であることに間違いはありません。でも現実には、私たちがイメージする十字架は、私を苦しめる拷問の道具としてとらえられているような気がします。
並大抵ではなかったはずの祖母の十字架がどんな十字架であったのか、本人に確かめたことはありませんが、拷問の道具でなかったことは確かです。祖母はどんな状況の中でも、決してよそ見をする人ではありませんでした。いつも現実を真正面から見つめ、現実の中に最大の可能性を探りながら歩いた人でした。そしてその十字架を支えていたのが祈りだったのです。祈りといっても、聖書を読むとか、詩編で祈るとか、「教会の祈り」を朝晩決まった時間に祈るというようなことではなく、時間のあるときに静かにロザリオの珠を繰りながら、自分に与えられた十字架を取り除いてください、といったようなことではなく、帰天した人の魂のため、生きている人々の回心と救いのために祈っているのだ、ということを祖母から聞いたことがあります。常に他人のために祈っていたその祈りが、他人にとっては拷問の道具のように見えた祖母の十字架を、祖母自身にとって喜びの十字架に変えていったのだと思います。
月の最終金曜日が「よもやまメール箱」の更新のしめきり日なのですが、いろいろ野暮用が重なって間に合いませんでした。そのあわただしさの中でじっくり考えさせられたことが、祖母の人生だったような気がします。
待降節に入り、典礼で「目覚めて祈りなさい」というイエス様のみことばを聞くたびに、「わたしゃ、いつも、お祈りばしよりますと!」と言った祖母の言葉を思い出しています。
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