掃く毎日
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
昨年の暮れに、私どもの新しい修道院が出来上がり、約20名の兄弟たちが引っ越して来ました。建物は内外ともにまだ新しさを保っていてピカピカ状態です。その中でも得に、みんなで掃除を担当する共同の、聖堂、食堂、洗面所、廊下、階段といったところは、しばらくの間はこのままピカピカ状態が続くと思うのですが、個人の裁量と判断に任せられている個室の中となると、どうもそうはいかないようです。院長様からは当然のことですが、個室といえども個人の所有物ではないので、いつもこまめに掃除をして、清潔さと新しさを保つように、という注意がありましたが、掃除にも得手、不得手という人がおりますから、同じ注意も耳の前を通り過ぎて行ってしまった人と、言われなくても毎日清潔を心掛けている人がいるようだといううわさが聞こえてきています。
カトリックの修道会にはどこにでも、会員を養成する修練という1年か2年の修行の期間が設けられています。この修練の内容について、他の修道会のことは知りませんが、私どもの修道会の修練の期間中には、仏教の僧侶が厳しい修行時代に行う修行のなかの、自分の住まいを常に美しく保つという掃除の修行といったものがないせいか、掃除というのは、汚れたところをきれいにすること、と心得ている風潮があるような気がします。
私自身も、自分の部屋の汚れた状態にいつも気づいているのですが、その気づきに対しては、自分の心の中での《まだ大丈夫》という自分自身への言い訳がいつも勝って、いよいよ《もうだめだ! こりゃたまらん! 何か臭うような気がする?》という状態になって、やっと必死になって掃除を始めるという始末なのです。修練中に厳しい掃除の修練があったらこんなにだらしない修道者にならずにすんだのに、と、どこかに責任転嫁をしているのです。
「汚れたところをきれいにするのを掃除と言うのではありません。掃除とはきれいなところをきれに保つことです」
最近、ある人から聞いた言葉です。私にその話をした人も、自分の寺を毎日ピカピカに磨きあげて掃除をし、参詣者を迎えているある僧侶から聞いたのだそうです。私自身はそれ以来、自分の部屋に入るたびに、《きれいに保つ》と自分に言い聞かせるようになりましたが、きれにするのはほんの一部で、すぐに妥協してしまって、大部分は《まだ、大丈夫》と自分に言い聞かせている始末です。習慣とは恐ろしいものです。
考えてみると、自分の体を汚れるまで放っておいて、《まだ 大丈夫》なんて思う人はいません。毎日きれいに保つために、喜んでシャワーを浴び、お風呂に入っています。自分の身だけでなく、その周りもきれいに保つために、今からでも遅くはない、修行を始めよう。そのように自分に言い聞かせた年の初めでした。
HOME
HOME
バックナンバーへ