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無くしたものが……

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 ルカ福音書の15章は「『見失った羊』のたとえ」「『無くした銀貨』のたとえ」「『放蕩息子』のたとえ」という三つのたとえ話で構成されています。いずれも無くなっていたものが見つかったというたとえ話です。これは徴税人や罪びとがイエス様の話を聞こうとして集まって来たのを見たファリサイ派の人々や律法学者が、「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出したときに、彼らに対してなされたたとえ話です。
 
 「無くなったものが見つかった」というのは、「罪びとが回心した」ことを意味するものですが、これらのたとえ話には、羊を捜し出した牧者の喜び、ドラクメ銀貨を見つけ出した女の喜び、帰還した放蕩息子を迎える父親の喜びが表されています。たとえ話の意味もさることながら、無くしていたものを見つけ出したときのそれぞれの喜びを、「本当に嬉しかっただろうなあ!」と想像すると、こちらまで心がわくわくしてくるのを感じます。

 心がわくわくしてくる、というのは、自分にも無くしたものを見つけ出したときのほっとした喜びの体験があるかだと思います。

 その体験の最初のものは、小学3年生か4年生のころのことです。ある日、夕方薄暗くなって親に買い物の使いを頼まれ、お金を包んだ風呂敷を渡されました。お金が入っているから気をつけるように、と注意されていたにもかかわらず、買ってくる物のことだけに集中していて、風呂敷の中のお金のことをそのうちうっかり忘れていました。その風呂敷を広げてヒラヒラ振り回しながら店に着き、物を買おうとして、「あーッ!」と気づいたときは後の祭りでした。

 そのときの私のただならぬ様子を見た山本光一さんというお兄さんが、どうしたのか? と聞いたので、お金を落とした、と言うと、捜してやるよ、と言って既に暗くなっていた我が家までの道を、懐中電灯で照らしながら一緒に捜してくださったのです。ありました! 落としていたのは自分のうちのすぐ近くでした。結局、買い物をするために家と店を2往復して帰りが遅くなったので、親は心配したと思います。でも、家に帰って親になんと報告したか、親からなんと言われたか、全く記憶にありません。ところが、暗闇の道で淡い電灯に照らされたお金を見たときの、あった! というあの感動は50年以上たった今でもはっきりと覚えています。

 物を無くして見つけ出したことは、それから何度もありますが、無くしたショック、見つけ出した感動、といったほどのことはありませんでした。ところがつい最近、無くしたショック、見つからなかったショック、といったことが2度も重なって、「歳のせいかなあ…?」と落ち込んでいました。ちょっと大げさですが、無くしたものが大事なものだっただけに、そしてそんな簡単に無くなるのもではないものだっただけに、もう立ち直れないかもしれない、という思いが脳裏をかすめたくらいです。でも、不幸中の幸いというか、無くしたものの代わりになるものがあったので、取り返しがつかないということにはなりませんでした。
 
一つはどこにしまったのか分からなくなってしまったもので、もう一つはどこでどうやって無くしたか分からないというものです。あらゆる可能性を考えて、「こんなところにあった!」という感動まで先取りして想い浮かべながら懸命に捜していたのですが、ついにその実現も空しく、しばらくは目の前の大事なことまでも手につかなくなっていたように思います。

 そんな状態で四旬節を迎えました。物を無くしたことで自分まで無くしてしまいそうになったショックが完全に消えたわけではありませんが、余計な思いに引きずられていると、一番大事な「今」という時が無駄になってしまうと思い直し、無くしたものはもう戻ってこないが、取り返しがつかないわけではない、と諦めて開き直ったら、少し気が楽になったような、弱い自分をあらためて見つけ出したような思いで、四旬節を過ごしています。