ルルドの水の話
赤波江謙一神父のよもやまメール箱
毎月第3金曜日、私は「祈りの友」という集いに出かけます。集いのメンバーは15人くらいで、朝10時ごろから祈りが始まり、11時からミサがささげられます。ミサの後、12時から食事をし、13時30分から15時まで「みことば」の分かち合いをして解散、というものです。私は、電車で1時間半くらいかかるので、ミサからの参加ということにしています。新宿にある修道院を出るのが9時前で、電車を二本乗り継いで八王子に着くのが10時ごろ。10時03分のバスに乗って、10時30分過ぎに終点の戸吹(とぶき)に着き、そこから徒歩で10分くらい歩いて、修道院に着きます。ほとんどこのコースで行くのですが、3月の集いでは、ちょっとしたハプニングのドラマがありました。
いつものように9時前に出かける準備をしていたのですが、出発前の8時半ごろ急用が出来たので、出発が9時半になり、八王子着が10時30分になりました。10時33分のバスに乗ればミサにはギリギリ間に合うと思ってそのバスを待っていたのですが、どういうわけか、10時30分から30分待ってもそのバスは来ず、11時03分のバスに乗る羽目になってしまいました。悪いことは続くもので、いつもは30分で終点に着くのが、その日に限ってとんでもない渋滞で、戸吹に着いたのは12時でした。あらかじめ電話を入れておいたので、みなさんは祈りをしながら待っていてくださったのですが、わたしには実は別の事情があったのです。
その日は大阪に行く用事が重なっていたので、ミサが終わったら食事をしないですぐバスで八王子駅に向かい、13時50分の電車で新横浜に行き、 14時50分の新幹線に乗る予定でした。ところが予定が1時間遅れ、ミサが始まったのは12時10分でした。ミサの中ではいつもその日の福音について話をするので、その日もそのつもりではありましたが、時間がなくなったので、少し短くしたほうがいいなと思っていました。ところがミサが始まってしまうと、そんなことは忘れ、ついつい話がいつものような調子になってしまったのです。というのは、つい前日にあったひとつの出来事を思い出して、それを話してしまったのです。
その日の福音はマルコ福音書12章の「最も重要な掟」(28‐34)でした。重要な掟というのは、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」ことで、それはどんな焼き尽くす献げものやいけにえよりも優れている、と書かれています。それを読んでいて思い出した話というのは、その3日前に帰国した巡礼のお土産にフランスから持ち帰った「ルルドの水」のことです。同行司祭という仕事で行ったルルドで、1リットルくらいのプラスティック容器に入れたルルドの水をお土産に用意してスーツケースに詰めました。ところがホテルから駅に向かったタクシーの運転手さんが、「これ、あなたにあげる」と言って、私が持っているものと同じものをもう一個くれたのです。ルルドの水は無料ですから好きなだけ持って来れるのですが、私は自分が用意していたものだけで十分と思っていましたので、同じものをもう一つもらっても、そんなにいらないよ、というのが正直な気持ちでした。せっかくですから断らずにいただいてはきたものの、いったいどうしようかなあと、帰国するまで荷物の中のもう一個の水の容器のことを思い出してはぼんやりと考えていました。
13日に関空に到着し、荷物は宅配便にまかせて帰京しましたので、荷物が着いたのは14日でした。関空から羽田までの飛行機の中だったと思いますが、私の隣の部屋の病気療養中のM神父さんのことが、ふっと頭に思い浮かび、同時に、あ、あのルルドの水はM神父さんにあげよう、と思いつき、ほっと一安心しました。と思ってはみたものの、果たして受け取ってくれるかなあ、いらないよ、と断れたらいやだなあ、なんていうことを考えていたのも事実です。
荷物が着いた14日の夜、彼の部屋を訪ねましたが、いませんでした。次の日の15日の朝も、やはり部屋を留守にしていました。それで院長に渡してもらおうと思い、水を持って院長室に行きましたが、院長も不在でした。3回振られて気持ちが少し傾き(?)かけていたのですが、その夜もう一度訪ねたら、今度は部屋にいましたので、「ルルドから水を持ってきたんだけど、いる?」と聞くと、「ありがとう」と言って、手のひらに入ってしまうくらいの小さな容器を2個持ってきました。私が、これ全部あげるよ、といってルルドから持ってきた水を容器ごと渡すと、彼は驚いたように、こんなにいいの? と言い、そして、嬉しくて手が震えているよ、と言いました。見ると本当に手が小刻みに震えています。私のほうがびっくりしてしまい、そして内心恥ずかしくなりました。
あの水はそもそも、彼のためにと思って最初から準備していたものではなく、見ず知らずの女性のタクシー運転手が、これあげる、と言ったのを、そんなにいらないよ、という思いで持ってきたものだったからです。彼がそんなに喜ぶとは思ってもみませんでした。もしかしたら、日ごろからマリア様に対して篤い信心をささげている彼のために、ルルドのマリア様が、私を使ってルルドの水を運ばせたのかなあと思っています。そういえばあのタクシーの運転手は女の人でした。ちょっと考えすぎかな?
水を運ぶ私の中に情的なものはなにも感じていなかったのですが、その水が彼のところに水が届いたときには、それは喜びにあふれたものになっていました。愛というのは、伝える側の自己満足を求めるようなものではなく、伝えられる人が、何らかの形で喜びを感じるようなものではないでしょうか。それがそのときのミサの福音についての話の結論でした。でも私がもっと驚き、そして感動したのはその後でした。
ミサが終わったのは12時55分でした。その5分後の13時発のバスに乗れば、八王子駅発の13時50分の電車に乗れるはずでしたが、間に合いません。その次のバスは遠回り経由で、しかも13時10分発なので、50分発の電車には間に合いそうもありません。それでも、コーヒーを一杯、というシスターの好意も振り切って、バス停に向かいましたが、あんな説教さえしなければバスに間に合ったのに、説教しなければよかったなあ、そんなことを考えながらトボトボと歩いていました。3分くらい歩いたとき、後ろで、プップー、と車のクラクションが鳴りました。振り向くと運転席の開いた窓からシスターが顔を出して、どこに行くんですか? と聞きます。八王子駅、と言うと、乗って行きますか? と言います。シスターはどこに行くの? と聞く私に、私たちも八王子駅のすぐ近くに行くところです、と言うではありませんか。
八王子駅に着いたのは13時25分でした。私が困っていたのを知らないでシスターは何の気なしに声をかけたのですが、そのシスターの声は、私にとってはマリア様の声か、天使の声に聞こえました。バスに乗り遅れる原因となった出掛けの用事も、バスに乗り遅れたことも、ミサの開始時間が遅れたことも、説教をしたことも、コーヒーを断ったことも、私が予定通りに電車に乗るために何の妨げにもなりませんでした。こんなことってあるんだなあ、と八王子駅に向かう車の中で興奮気味にシスターに話したことでした。
ルルドの水を運んだ私も、私に声をかけたシスターも、何の気なしにしたことだったのですが、伝わった先で、その「何の気なし」が大きな喜びに変わっていったのです。愛とは伝えること、伝わらないものは愛ではないということ、何の気なし、というのも大切なことだということを、今になってもしみじみと味わっています。ルルドの水の長い巡礼の旅でした。私の話もながーくなってしまいました。
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