よもやまメール箱

先入観

赤波江謙一神父のよもやまメール箱


 復活祭の後に行われたある黙想会で、一人の黙想者から、「既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが『子たちよ、何か食べる物があるか』と言われると、彼らは、『ありません』と答えた」(ヨハネ21・4−5)という箇所について、数日前まで一緒に生活していたイエスの声に、弟子たちはどうして気づかなかったのか、という質問を受けました。

 「どうしてイエスの声に気づかなかったのか?」

 その疑問はその箇所だけでなく、ほかの幾つかの箇所でもいえることです。

 「こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。『婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。』マリアは園丁だと思って言った。『あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。』(ヨハネ20・14−15)

 「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。」(ルカ24・36−37)

 「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいてきて、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮(さえぎ)られていて、イエスだとは分からなかった。」(ルカ24・15−16)

 漁を終えた弟子たちも、園で泣いていたマリアも、話し合っていた弟子たちも、論じ合っていた二人も、みんな目が遮られていてイエスだと分からなかったばかりか、その声の主がイエスだと分からなかったのは、イエスが彼らの目と耳を遮っていたからではなく、シモン・ペトロともう一人の弟子が、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、まだ理解していなかった」(ヨハネ20・9)ように、だれもが、「あの人は、死んでしまった、もうこの世にはいない」という思い込みにとらわれていたからでした。

 先入観、思い込み、偏見といったものは、さまざまなこと、特に人に対する正しい評価を妨げる大きな要因にあることがあります。

 ご復活のイエス様が最初にお現れになったマグダラのマリアが、主は生きておられる、と言っても弟子たちが信じなかった(マルコ16・9−11)のは、彼女がかつて七つの悪霊に取りつかれていたのを追い出してもらった人、ということへの偏見なのかなあ、と考えたりもします。

 私たちは人についての過去の記憶というものを払拭することはできませんが、その記憶に基づいてその人を、先入観、思い込み、偏見で目と耳を遮って評価するのではなくて、今、現在のこの人、というありのままの姿を謙虚に評価することができたら、もっとたくさんのことを学ぶことができると思います。

 人についての思い込みということではないのですが、この前、ちょっと怖い経験をしました。

 最近、よくバスを利用するのですが、その車内放送での、「バスのすぐ前や後ろの横断は大変危険です。必ず横断歩道を渡りましょう」という呼びかけを乗車のたびに聞いていながら、あまり真剣に考えたことはありませんでした。この前、東京の郊外で夜8時ごろバスを降りて、道路の反対側にあるコンビニに買い物に行こうとしたときも、そんな言葉など思い出すこともなく、バス停から進行方向30メートルばかり先の交差点の横断歩道まで行かずに、赤信号で停止していた数台の車列の中のバスのすぐ前で、反対車線の左側を見ながら、交差点を右折、左折して来る車が途絶えたのを確認して、バスの前から車道を横切ろうとした、その時でした。全く注意を払っていなかった右から、いきなり一台の軽トラックが走ってきて、私の30センチ前を左の方に走って行ったのです。私がいた車線に右折の車線があることをまったく意識していませんでした。

 全く恥ずかしいかぎりですが、そこは一本の車線だけ、左だけ確認すれば十分という思い込みで、車のいない今のうちに早く渡ろうと、あと一秒早く駆け出していたら、完全にあのトラックにはねられていた、間一髪のところで、命拾いをした、という話です。

 聖書とは何の関係もない話ですが、先の黙想者の質問を一緒に考えながら、人間の先入観、偏見、思い込みというのは、いろんなところに根を張っていて、それに縛られていると、本当のものが見えなくなるばかりか、時には危険に身をさらすことにもなりかねない、と思っていたら、この話を思い出したというわけです。学びの機会を与えられたことに感謝しながら、自分の中にあるさまざまな偏見や先入観や思い込みを払拭し、謙虚に、他人のあるがままの姿を見つめ、ほかの人の声に(車内の声にも)耳を傾けていきたいと思っています。